文学において、手を変え品を変え描かれるテーマのひとつが「ダメ人間の世界」だ。
経済的な部分か、内面的なものかはさておき、彼らの葛藤はそれだけでも様々なモノを読者の目前に提示してくれる。
ダメ人間と言ったけれど、こうしたキャラクター達の持つ要素というのは、よっぽど例外的な人以外は多かれ少なかれ持っているもので、だからこそこういう作品は一定以上のリアリティを持って響く。
わたし自身も、それに感化されたり反発したりしながらも、一定の共感を持って読んでいる読者の一人だ。
こうした作品の代表格としては『人間失格』(太宰治)が広く知られている。生活能力に乏しい、内面もいくところまで行きついた感のある主人公は、確かにこの手の作品の代表格というにふさわしい風格だ。
が、実際のところ、日本の近代文学にはこうした主人公は枚挙にいとまがない。
夏目漱石『それから』も、そうした主人公の内面を描いた作品の一つだ。
ただ、『それから』の主人公は、『人間失格』とはまた違った意味で、突き抜けてしまっているのだが。
『それから』の主人公である代介は、いわゆる無職だ。もっとも、ただの無職ではない。
たまたま経済力のある実業家の元に生まれた代介は、それをいいことに30歳を回っても親の援助だけで高等遊民を気どり、読書三昧の生活を送っている。
本音を言うなら、うらやましい生活だ。
きれいごとは抜きにして、よほど仕事にやりがいを見出しているのでもない限りは、代介の立場に羨望の感情を感じない読者はほとんどいないだろう。
ただ、その一方で代介というキャラクターそのものに魅力を感じる読者はほとんどいないのではないだろうか。
その原因は、彼のあまりの屈託のなさにある。
彼が他のこの手の作品と決定的に違っているのは、葛藤そのものがロクにないことだ。
時代的にこの手の高等遊民がそこそこいたからかもしれないが、代介は直接の親どころか、直接血のつながりのない親族からさえ金を受け取り、しかもさほどそれを恥じるところもない。
彼にとっては、それが「当たり前」なのだ。
問題は作品のほぼ全体を通して、そういう立場でありながら周囲を見下した感がありありと感じられることだ。
文化的に高尚であることを重んじる彼は、生活面では完全に欠落していながら、日々の暮らしありきの周囲を下に見るばかりだ。
もちろん、実生活をしていくうえでは、文化だなんだと言っている余裕はない。
それは、今も昔も変わらない逆説ではある。
けれど、それを踏まえた上でも、後ろめたさも感謝の念さえ全く感じられない彼の姿は、ハッキリ言って「いい度胸してんな、お前」としか言いようのないものだ。
ハッキリ言うと、純粋な不快感という点ではものすごい。
もっとも、敢えて言えば、代介は無邪気ともいえる。
年齢的には大人であっても、俗な実社会というものに本質的には無縁だった彼は、思春期の子供とさほど変わらないのだ。
『それから』は、そんな子供が、いきなり大人として目覚めざるを得なくなった、その瞬間を描き出したものなのだ。
『それから』の筋そのものは不倫の関係を描いたものだ。
かつて感情まかせに、内心意識していた女性を友人と引き合わせ、そのまま結婚に至らせた(つまり仲人だ)代介だったが、数年ぶりに再会したとき、彼らの夫婦仲はすっかり寒々としたものになっていた。
あまりの変貌ぶりに触発され、代介はかつての自分の感情を思い出すかのように、その女性に思いを告白する。
結果的にそれまで援助を受けていた実の親からも、親族たちからも絶縁されてしまった代介が、生活の糧を得るために町に飛び出していくところで、本作は幕を閉じる。
今でこそそれなりの頻度で見かけるようになった不倫という行為だけれど、それでもあまり胸を張って言えるような行為ではない。
ましてや、明治時代ではなおさらだったろう。代介本人にしても、絶縁という結果は予想していた。
それでも、代介は親の言いなりにならないこと、そしてその結果として自分で実社会に出ていくことを自ら選び取る。
もっとも、本作は実社会での生活をことさら美化しているわけではない。
主人公が魅力に乏しいことは前述したとおりだけれど、だからと言ってそれ以外のキャラが魅力的かというと、そういうわけでは決してない。
生活をしていること、それ自体に酔ってしまい意中の女性をないがしろにする友人、そして政略結婚を勧めるばかりの父親。
彼らは確かに生活を成り立たせてはいるものの、それを傘にきたような態度は、(主人公があまりにアレなのでごまかされてはいるものの)ただただ安っぽい。
描写自体かなり辛辣な所をみると、作者の夏目漱石自身、そうした世の中の安っぽさに辟易していた面はあったのかもしれない。
けれど、その安っぽさと引き換えに、経済力という武器を手にできるのも確かなのだ。
それがあるからこそ、自らの望む通りの女性と生活を共にする、自分の意思を貫くことができるということも。
作中ラストに至り、ようやく自らにその武器が欠けていることを明確に自覚した主人公は、無我夢中で「世の中」に飛び出していくことを選ぶ。
つまり、本作は、不倫を題材としては使っているものの、それまで親となあなあで慣れ合い、その代わりに安寧の生活を得ていた主人公が、敢えてそれを捨てるまでの「成長」が主題なのだ。
作者である夏目漱石は、この物語の結末に、何ら明確な答えを出していない。
だから、この選択の結果、主人公がどうなったかは不明だけれど、不倫ということは差っ引いても、そもそもそれまで生活力皆無なまま通してきた主人公である。
平坦な道のりとはどうやっても考えづらいし、悲惨な結末に終わった可能性だって決して低くはない。
おそらく漱石だって、いきなり全てがうまく回るようなドリーミーな結末は想定していなかっただろう。
それでも。その苦労と困難と引き換えにしても、現実に向き合う事には価値がある。
想像だけれど、恐らく作者の言いたかったことは、そういうことではないか。
中盤まで観念的なものにすぎなかった主人公の思考回路が、徐々に現実に向き合わざるを得なくなっていく過程は、時代が違うにもかかわらず、まさに大人になる過程をそのまま描き出したような精緻さで、一種のシミュレーションになっている。
そして、ラストの主人公の狂奔は、四面楚歌の状況にもかかわらず、なぜだか興奮に満ちている。遅れてやってきた青春。そういう感じだ。
題材と主人公の年齢からわかりづらくなってしまっているが、本作はれっきとした「青春物語」なのだ。
基本的に若いうちに目を通すべき一冊だけれど、歳を食ってから読むと、それはそれで自分の経験に照らして感じるものがあるはずだ。