創作作品においてひとつのストーリーを紡ごうとした時、そこには様々な構成法があります。
ただ、万人とまではいかないにせよ、ある程度幅広い層に楽しんでもらおうと思ったら、いくつか外してはいけないポイントがあります。
その一つが、王道を外さないということです。
共感を得たいなら王道展開は必須
どの程度定型を守るかは制作者によって様々ですが、完全に王道を無視した作品というのはまず受けることはありません。
逆に、ヒットした作品は、程度の差こそあれ驚くほどに一定のフォーマットに忠実です。
また、アングラな作品でも、ある程度評価の高い作品というのは、一見破天荒な構成であっても、心理描写など根幹の部分で、意外と王道要素を取り入れていたりします。
これは、不特定多数に見てもらうことを想定する限りは当然の帰結です。
時代が変わっても、人間の共感要素なんてそんなに数はありません。
そして、王道というのは古くはシェークスピアの時代から、人に共感を得られるからこそ生き残ってきた構成法なわけです。
だから、時代が変わった現代でも、ユーザーを共感を得ようとするならある程度は王道に従わざるを得ないのです。
アダルト作品でも守られる王道
極端な話ですが、アダルトのドラマ作品なんかは、ある意味でそれを実践している典型と言えます。
アダルト作品は一般的にストーリー性はそんなに強くありません。実用性ありきですから、ドラマとはいっても、その筋はセックスありきのシンプルなものです。
ただ、その分「押さえるべきところ」は徹底的に王道に忠実です。
もちろん、王道と言っても、アダルトならではのそれです。けれど、見習うべき点として、これらの作品の制作者は、往々にしてパターンに嵌ることを全く恐れていないんですよね。
たとえば、わたしが見た中では旦那の父親が息子の嫁を手籠めにしてしまう、という某作品。
息子の嫁さんにエロいスキンシップを仕掛けた結果、それに慣れてしまった嫁さんが、別居後も親父の家を訪ねてくるようになった、というのが基本的なアウトラインになります。
ねっちりした、変態的な描写が特徴なんですが(詳述はえげつな過ぎるんで避けます)、視聴者が疲れを覚えるほどの本番に至るまでの焦らしや、後ろ暗い葛藤の雰囲気などが見事なまでに官能小説そのもの。
じわじわとハマっていく盛り上げ方も、まさに定型以外の何物でもありません。
つまり、変態要素以外は全くと言っていいほど奇をてらった要素は見受けられません。
ですが、だからこそアダルト作品としての実用性が担保できている面があります。
そもそもドラマ系では、いかに作品中の行為がインモラルであろうと、ある程度は共感できる入り口を作っておかないとまったく入り込めません。
絵面のいやらしさだけで押そうと思えば押せるグラビアやAVアイドル系と違って、ドラマ系は、まず設定と話の流れあってこそのものですから。
言い方を変えれば、下手に王道を外すと、きわめて実用性に乏しいものになってしまうのです。
その点では、この作品の制作者なんかは「わかってる」と思います。
個性だけでは名作にはなりえない
何でこんなことを書いているかというと、もうひとつは先日みた作品がまさに王道を無視した典型だったことが原因です。
バイオレンスものだったんですが、王道まったく無視で、単に過激さのみを押し出した作風。
確かに、描かれる暴力描写は、それまでそうそう見たことがないレベルのものでした。
そういう意味では、オリジナリティは十分すぎるほど押し出せています。
ただ、何も残らなかったんですよね。見た後に。
バイオレンス系の作品に感動を期待していたわけではないですが、それを差っ引いても、インパクトさえ皆無。
絵面は恐ろしく派手なのに、見終わった瞬間に頭の中からすっと消えちゃったんですよね。
実際、あれから数日たちましたが、筆者の中ではもはや主役の顔さえ朧げです。
唯一残ったのは、悪趣味すぎて醜悪という印象だけでした。
多分、制作者も意図的に悪趣味さを押し出したんだとは思います。
たしかに、それもひとつの表現手法ではあります。
ですが、その方向で支持を得られようとするなら、作者のきわめて高いバランス感覚と自制心、あるいはその周辺の(それが商業的観点のものであるかどうかにかかわらず)適当な程度の制限が必要です。
まして、なにかしら後に引くものを残そうとするなら、なおさら。
ピカレスクやバイオレンスといったジャンルは共感できる余地がもともと少ないという難しさはありますが、それでも(たとえわずかにせよ)そういう要素を織り込まない限り、その場限りの薄い作品になってしまいます。
言い方を変えるなら、王道の要素をいかに織り込むかが、普通の作品以上に大事になってきます。
でも、露悪性のさじ加減も含めて、そういうバランスを保てる人って、想像以上に少ないんでしょうね。
制作過程の打ち合わせなどは一視聴者である筆者には当然わかりませんが、やりたい放題やっていい、と言われたら王道もバランス感覚も吹っ飛んでしまうのがクリエイターという職にある人種の性なのかもしれません。
オリジナリティ偏重のご時世に名作は生まれない
ただ、これってクリエイター自身の才能云々だけの問題ではない気もするのです。
最近面白い作品がないっていう声はよく聞きますが、やたらにオリジナリティを求める世の中にも原因がある気はします。
なんか、押しつけがましいくらいに個性が大事とか言われてる気がするんですよね。
こうなると、クリエイターだって神経質になってしまうでしょうし、意識の上でもどうしたって王道だとかバランスといった面はおざなりになるでしょう。
「落ち続けてるのはオリジナリティーがないからだと思うの」とのセリフは、以前見た某作品で、コンテストに落ちた時の登場人物のセリフですが、これが昨今の認識のすべてを象徴してる気がします。
オリジナリティが薄かろうが、完全なパクりでないかぎり、つまりちゃんと自分なりの要素を織り込んでいれば、それなりの独自性は出るものです。
まして、王道パターンについては、それをなぞったからと言って、それがオリジナル性を低めるということはまったくありません。たとえガチガチにお決まり展開の連発であろうと、質を伴っていれば、それなりの評価はついてくるものです。
そもそも、昔からの王道パターンだけで、おおかた表現ってのはやりつくされてしまってるんですから、それでオリジナル性が薄いと言い始めてしまったら、マトモに作品を作ることなんてできないでしょう。
だから、今の状況というのは、面白いものを見たいと言いながら、自らその製作者に枷をはめているようなものです。
面白い作品が少なくなったという言葉を聞くようになって相当経つ気がしますが、そろそろ見方を変えないと、マジでまっとうな作品がなくなってしまうんじゃないか。人生の最後までエンタメで楽しませてもらいたいと願うわたしは、つくづくそれが心配でなりません。