毎日の生活にかまけているとつい忘れがちになるけれど、少し時代をさかのぼると、同じ国とはいえ驚くほどに文化の違いが生じていることに気づく。
日本に限定しても、たとえば30年もさかのぼればバブル期。
経済的には反映していた一方で、横行する容赦ない地上げなど、ある意味では現在以上に倫理的には壊れた面もあった時代だ。
もちろん、だから当時と比較して今がいい時代かというと、そんなことは全く思わないのだけれど、明るさの反面で影が色濃く出ていた時代なのは事実だろう。
それは治安に関してもそうだ。凶悪事件など、いわゆる社会面のニュースになってしまうレベルの出来事はまた別の話として、少なくとも一般人が日常生活で遭遇しうる範囲での「治安」は、当時は今とは比較にならないほど悪かった。
街を歩いていても、今とはまた違った意味で荒んでいたし、価値観もかなり荒っぽかった。
もし仮に平成生まれの方々が当時の空気に触れたとしたら、かなり違和感を感じるはずだ。
まして、海外にまで目をむけると、先進国と言われる国々でさえイメージとは正反対の荒々しい顔を見せてくる。
例えば、70年代のイギリス。
アイルランドとの争いのため、テロに直面していた当時のイギリスでは、警察権が極端に強化された結果、かえって腐敗と一方的な暴力が蔓延する状態となっていたという。
まさに暗黒時代さながらだが、そんな惨状が、まがりなりにも紳士の国などと謳われるイギリスの、当時の現実だったのだ。
そんな時代を舞台にした小説の一つが、『1974 ジョーカー』だ。
ノワール作家、ディヴィット・ピースのデビュー作でもある本作は、徹頭徹尾明るい要素を排除し、一つの殺人事件を通してどん底まで荒み果てた社会を描き出す、まさに暗黒小説という呼び名がしっくりくる一作だ。
スクープを渇望する新聞記者・エディが殺人事件の真相を追ううちに泥沼にハマり、破滅へと落ちていく様をスピード感あふれる文体で表現している。
ノワールというジャンル自体そうだが、ことに本作で描かれる世界は、文字通り真っ黒だ。
救いがないのはもちろん、ひとかけらの良識も存在しない。
そもそも主人公のエディからして、その点では変わらない。
一般人であり、しかも一応本作における探偵役―――つまり「正義」側の役割を担う立場の彼だが、特に疑問も抱かずに虐待に限りなく近い行為を行う、現在の常識で考えたらクズとしかいいようのないキャラクターなのだ。
もちろん、悪役に至っては良識のトビ具合は言うまでもない。
しかも、これでピカレスク的な、まだ「悪事を楽しむ」という世界ならまだマシなのだけれど、エディも悪党も、決してその悪徳で満たされてはいない。
むしろどいつもこいつも不全感に満ちていて、生き甲斐だの喜びなどといったポジティブな感覚からは数百光年遠い。
ディストピアという言葉がそのまま当てはまる世界なのだ。
こうした世界をぶつ切りを多用したテンポの速い文章で描く本作は、まさに悪夢そのものだ。
正直なところ、この文体は欠点も多い。具体的な状況描写が省かれることが多いため、筋そのものの理解に支障をきたす場面がやたら多いのだ。
その代わり、まるで音楽のようなノリで描かれていくこともあって、イメージという点ではやたらに豊穣だ。
荒み果てた光景が、目まぐるしく脳裏を矢継ぎ早に通り過ぎていくにつれ、思考回路自体が、嫌な色一色に染め上げられていく。
元から気分が悪い状態で、さらに質の悪い酒でもヤケ飲みしたかのような、どろんどろんの感覚は、まるで脳がマヒしてしまったかのような感覚に陥ることだろう。
ハッキリ言って本作は、ストーリーを楽しめるとはお世辞にも言い難い。
読み進めるうちにどんどん気分が悪くなってくる。
ノワールというジャンルの性質を差し引いても、表現が感覚的な分、内容の暗さが直接気持ちに突き刺さってくるのだ。
ただ、それ故に、読書体験として考えると、類を見ないものがあるのは事実。
たかだか本を読むという行為一つで、ここまで危機感を覚えさせられる一冊というのは少ない。
まるで危険物のような、取り扱い注意の一冊。
読もうと思うなら、読後どよーんと落ち込んでも支障が出ないタイミングを見計らうことを強く推奨する。