「風流に生きる」という価値

こんにちは、雪月堂です。

 

いきなりですが、「風流な生き方」と聞いて、どういう感じを持たれるでしょうか。おそらく、少し気取ったような違和感を感じられるのではないかと思います。
昔の人にとって、風流に生きるというのはかなり重要な価値だったそうです。粋といった言葉もあるように、ひとつの人生感だったのかもしれません。

 

一方、現代では風流さにはあまり価値が見いだされません。というか、人生観のような概念的な価値観自体が軽視される傾向があります。
そんなことを考えているよりは、仕事をどんどん片付ける能力だったり、ワールドワイドに通用する能力だったり、リーダーシップだったりと、とにかく実務で力を発揮することが重要ということになっています。
一言でまとめて言えばお金を稼ぐ能力、つまり生活能力が重要ということでしょう。

確かに、こういう能力が、生きていくには相当重要なポジションを占めるのは確かです。
そもそも、粋や風流さが重視されていた時代でも、生活能力の重要さには変わりがなかったはずです。生活できなければしょうがないのですから。

違いはただ一つ、生活能力「だけ」が重きを置かれているか否か、です。
見ようによっては、ある意味では昔よりも現代の方が、重きを置かれる価値が生活の可否のみになってシンプルになったとも言えます。

 

けれど、それで生きやすくなったかというと、逆のような気がします。
社会の安定性などはかつてとは比べ物にならないくらい安定しているはずなのに、ドンヨリと頭上を覆っているかのような重苦しさを感じることも多いのは何故なのでしょうか。
個人的な考えですが、むしろ生き方の指針が一つになってしまうことが、単に生き方の許容範囲を狭めることにしかならなかったためではないかと思います。

何しろ、お金を稼ぐことだけが重要となると、他のことには何の意味もないと言っているに等しいからです。そこにうまくハマれなかった人はもちろんのこと、上手に乗りこなせた人でも、ちょっと油断すればあっという間に転落。一旦落ちてしまえば、何の価値も見いだされない。
これでは、うかうか日々に空しさを覚えることさえできません。
ヒーリングやスピリチュアルが大盛況ですが、そうした中で、せめて通常の生活から離れた感覚を取り戻したいという方が多いあらわれではないかと思うのです。

 

こうした中で、敢えて「風流に生きる」ことを、頭の中だけでも考えてみるのは、一つの癒しにならないでしょうか。
実際問題、世の中全体がこうなっている以上、そう簡単に風流だの粋だのといった価値観が評価されることはそう簡単にはないでしょうし、仕事などの上でもそうした価値に根付いた行動はなかなか評価されることはないでしょう。

けれど、自分のプライベートだけでも「風流であること」を考え、気取ってみる。もちろん余裕のある範囲でしか無理でしょうが、実際やってみると、イメージだけでも意外に気分も変わります。少なくとも、私には結構効果ありでした。私は正直生活能力という意味では相当低い方ですが、自分の身の処し方に選択肢が増えたように感じました。
もし、お金だけの生活に疲れているなら、少しだけ、違う価値観を許してあげることで、癒しが生まれるかもしれません。

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