金が人を歪めるという身も蓋もない現実『自分会議』

大人と子供の違いで一番大きなものと言えば、何と言っても「金」の捉え方だと思う。
そりゃそうだ。子供と違って、大人にとっては生活の糧ですからね。
こう率直に書いてしまうと「それだけじゃない!」という意見もあるだろうし、実際確かにそうなのだけれど、かといって金の重要性が薄まるわけでもありません。
先立つものがないというのは、それだけで心を荒ませるものだからです。

ただ、問題は金というのが「あって困るものではない」こと。
困窮していて金を欲しがるのは当然としても、そこまで困っていない平均的な収入レベルではなくても、金に対する欲望は際限なく高くなっていってしまうものです。
そして、一旦膨れ上がってしまったその欲求は、時として手段も外見もいとわなくさせる。
下手に金のある家庭の遺産相続なんかは最たるものですが、あれ、当事者はともかくとして端から見ていたら見てられないえげつなさですからね。
昔の知人に一人、そういう家に生まれた奴がいたんですが、相続の時期はマジで人が変わったかのような面してましたからね…
世にあふれるそういう姿が、金というものを語るときにどうしても付きまとう「意地汚い」という印象の根源だと思うのです。

金への執着を子供は理解しない

さて、そんな風に金で豹変した人間の姿というのはある程度の歳まで成長していてもドン引きものです。
まして、子供にあんな様子を直接見せつけるのは、犯罪に近いと個人的には思います。
だって、絶対悪影響だろ、あんなん。人間不信にするにはうってつけでしょう。

ですけど、最近では金に関する教育を子供にも、みたいな言説も多いみたいで。
否定する気はないんですけど、どうなんだろうなあという一抹の不安を覚えざるを得ないわけです。
そりゃ、実学としては役には立つだろうけれど、子供への精神的な影響とかはどうなんだろうかとか。
相続関係はまた別にしたって、金絡みの話って、どう語ろうがある程度生臭さは付きまといますからね。

そんなシミュレーションをしたかのようなSF作品が存在します。
藤子・F先生の「自分会議」です。

 

未来の自分が金策をアドバイス 生臭すぎる『自分会議』の世界

投資や相続など、資産絡み全般に言えることですが、その価値の上がり下がりは後になって初めて分かることが多いものです。
それだけに、あそこでああしとけばよかった、あそこで現金で持っておくべきだった…みたいに、後悔は尽きません。
正業での稼ぎってわけではないから仕方がないと割り切る他ないんですが、それでも未練を引きづっている人は少なくないものと思われます。

では、そこで解決策があったらどうか。
過去にさかのぼって、まだ年若かったころの自分に、その資産の活用法を教えてあげられるならどうか…
これ、金に対して不満のあるすべての人が一度はする夢想でしょう。
実際、過去をやり直し系のタイムトラベルものでは必ずといっていいほど扱われるモチーフですし。
一番わかりやすい話だと、競馬などギャンブルでどの馬(選手)が勝つかわかってる状態で過去に戻れたらどうか、みたいな話ですが、仮にもしタイムトラベルが可能ならそりゃみんなやりますわな。

本作では、まさにそれを目的として未来の自分が主人公の前に現れます。
ただ、問題は、現れた未来の自分が一人ではなかったこと。
資産の運用って、一度よくなったとしても、そのやり方でうまくいくかどうかは最後までわからない、水物なんですよね。
一時期は調子が良くても、途中でヘタる場合もあるわけです。

結果として、主人公の目の前には、時系列に沿って自らの資産状況に後悔しきりの未来の自分が現れます。
そして、一番の最適解を見つけようとするわけですが、見つかるわけないんですよ。そもそも。
それぞれが、その時々の自分にとって都合のいい運用しか考えてないんだから。
結果、大人ならではの、醜い争いが繰り広げられることになります(それがすべて自分というのがまた滑稽極まりないんですが)。

金への執着は胸を張って語りうるものなのか?

結局、結論を出せなかった彼らは、最後に子供時代の自分を呼び寄せることにします。
穢れのない心を持っていた頃の自分に、公正な判断を仰ごうとしたわけです。
その結果どうなったか…

タイムトラベルという点でドラえもん的なユーモラスさも感じさせる本作ですが、オチはなんとも虚しいものです。
「大人になりたくない」という子供というのは昔から一定数いるもので、彼らに大して大人たちは、なってみればいいものだよ、あるいは甘えたことを言っているんじゃない、と語りかけます。
けれど…本当にまっさらな、ニュートラルな精神で見た時、金にあくせくする、それこそ「きれいごとじゃやってられない」大人たちの姿は、堂々と子供にみせつけるに値するものなのか。
ただ現実を目の当たりにさせるのではなく、オブラートに包むというのは、先人の知恵というものだったんじゃないのか。
そんなことをふと考えさせてくれる小品です。

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