確率はどこまで当てになるのか 成功率に拘ることの危険性

わたしは確率というやつをあまり信用していない。
スマホゲーにおけるガチャの排出確率なんてのは最たるものだけれど、
仕事・投資から試験の合格率に至るまで
確率が示されるあらゆる場面において
「ホントかよ?」と疑いを持ってしまう。

レアな病状や副作用ばかりが大当たりするサイテーな我が体質

そうなったのは、私自身のこれまでの経験によるものも大きい。

最近ではそうでもないけれど、
わたしは数年前までよく東洋医学や民間療法の治療院に出向いていた。

単純に不調が多かったせいもあるけれど、
それなら最初から医者に行けばいいじゃないかと思うかもしれない。
実際、特に民間療法に関しては経験則によるものが多く、エビデンスの面では乏しい。
乏しいどころか、カテゴリによってはほとんどオカルトに近い所さえある。

だから、もちろん読者の皆さんにこれらを率先して薦めようという気はない。
(※この項は西洋医学にせよ東洋医学・民間療法にせよ、
 特定の医療や治療法を否定したり肯定する意図はまったくない。念のため明記しておく)

それでもわたし自身は、感染症や命に係わるようなケースなど、
明らかに医者にかからないとまずいというケースでない限りは、
できるだけ東洋医学や民間医療系で済ませるようにしていた。

それは、単純にわたしの体質によるものだ。
なぜか薬の効きが通常考えられるよりもはるかに弱かったり、
確率的にまれなはずの副作用が出てしまうことが妙に多いのだ。

例えば、三十路前に唐突に皮膚炎になってしまったときのこと。
痒いわ痛いわ不安だわであまり出歩きたくないという猛烈な症状は
他の用事を全て忘れさせるほどの破壊力で、
さすがにわたしも専門の医者に出向いた。

出されたのは相当強いクスリで、
医者曰く三日もすればとりあえずかゆみは収まる、まず効かないことはないとの仰せだった。
ところが、これがまったく効かない。
この手のクスリって副作用の強烈さと引き換えの強い効きがウリだった気がするのだけれど…。

結局この時は、1年ほどかけて東洋医学系の治療院のアドバイスに従っているうちに
だんだん症状が和らいできた。
もっとも、正直なところ、治療院のアドバイスが良かったのかはわからないし、
なにより収まるまでの1年が地獄だった。

ただ確かなのは、最初に貰った薬が効かない、
確率的にはごくまれなはずの例外に自分が当たってしまったことだけだ。

とはいえ、これ一回だけならわたしだってたまたまと思うところだ。
けれど、残念ながら、こういうことがわたしにはたびたびだった。

別のケースである薬を飲んだときには、
「副作用が出たら処方中止ですが、まあ10000人に一人ですからまずないですよ」
と言われたにも関わらず見事に副作用が出たし、
以前ある病気になって緊急入院した際には、
医者に「症例としては知ってますけど、実際に目にしたのははじめてです」
とまで言われた。

これだけレアな確率を引き当てることが多いと、
自然に確率なんてあてにならないという気になるのもお分かりいただけるだろう。

※ちなみに話が完全に脱線するけれど、
西洋医学系(通常の医者)と東洋医学や民間療法系では、
同じ病気に対しても言ってることがぜんぜん違うというパターンが珍しくない。
医学の発展を考えると、
一度お互いに知識のすり合わせでもしてみればいいんじゃないかとも思うけど、
その辺はやはり難しいんだろうか。

分野によってそもそも異なる、確率の意味合いと厳密性

さて、さんざん確率をボロクソに書いてきたわけだけれど、
だからといってもちろん確率というやつを全否定する気はない
低確率なものになればなるほど、実際に起きうる可能性が低くなるのは事実だし、
その逆もしかりだ。

特に医療など命に係わる分野の場合は、
確率面を抜きにしては成立しない。
あれは科学的な検証や膨大な実験を重ねた上でハッキリ示された確率だから、
それなり以上のバックボーンはある、
しかも少なくとも現状の医療技術では動かしようのない数値ということになる。

けれど、そんなカッチリと計測された確率であっても、外れる時は外れるのだ。
意外と自分が一般的な確率における例外だったりするケースはままある。

まして、それ以外の分野では、確率の数値というのは、
医療とは比べ物にならないほどあてにならないものになる。

たとえば投資の場合などは、確率なんていうのは外れて当たり前だ。
予測ツールなんてものも多いけれど、
あれはどんなに確率が高くても、外れる時は外れる。
というよりも、外れることを織り込んでいなければ、
ああいうツールを使ってはいけない。
それが分かっていなければ、かえって振り回されることになってしまう。

確率というものがそこまで当てになるものではないことを前提として、
それでも多少なりとも優位性のある戦略を見出し、
トータルで利益が出るだけのルールと管理方法を組み立てるのが常識だ。
これだけでも、確率というものが
大して当てにならないことはわかるだろう。

また、これが受験や資格取得であったり、
将来の夢や目標に向かっての下準備段階などの場合は、
そもそも確率というものの意味合いそのものが大きく変わってくる。

こうした将来に向けての分野における確率とは、概ね「成功率」という形であらわされる。
受験などであれば「合格率」という形だろうし、
夢などの場合は明確な数値ではないにしても、
「かなう可能性が相対的に大きい・小さい」といった形。

それは目安にはなるだろう。
その確率が低ければ低いほど、実現可能性は低い。

けれど、確率が低い「だけ」で諦めるのはおすすめできない。
ひとつはこれらの「確率」は医療分野などとは違って、自分の方法論次第で覆せる可能性があること。
そしてもうひとつは、あまり確率にこだわり過ぎるとかえって視野狭窄に陥る危険性があるからだ。

成功率の前提自体を覆すという考え方

合格率や成功率といった数値(あるいは大まかな見込み)は、

・あなたが普通程度の適性を持っていて、
・かつ普通のやり方で、
・かつ普通程度の時間をかけて、
・かつ普通程度にやっていたら、

これくらいの確率になる、というものだということだ。
そこには、個々の適性の差も、やり方も一切考慮されていない。
あくまで、現時点で、実際に現れた現状だけをもとに
判断されたものなのだ。

だからこそ客観的なのだけれど、
その一方で、これらの確率の数値は、
「普通」ではない要素を一切考慮していない。

裏を返せば、その前提を覆せるなら、
意外と何とでもなったりする(こともある)。

上で記した要素の内、才能だけは確かにどうしようもない。
普通より優れている場合もあるだろうし、
劣っている場合もあるだろう。
ただ、それ以外の要素については、
いじりようはある。

要領の悪いやり方をしていないか。
練習方法を少し変えてみることはできないか。
かける時間そのものを延ばす方法はないか。
学ぶにあたって密度そのものを濃くする方法はないか。

例を挙げると、例えば受験において、
受験まであと1ヶ月で合格率30%未満、
しかも浪人するには余裕がない、という場合を考えてみる。
たしかにこの状況は、確率論を云々する以前にまずい。
このままでは志望先のレベルを
落とす以外にストレートで入れる確率は相当に低いだろう。

けれど、このケースの場合、
浪人できないからこそ時間がないという話になっているわけだ。

では、浪人できない理由はそもそもなにか。
これが本当に時間的に、1年を捨てる余裕がないということであれば、
確かにどうしようもないだろう。

けれど、単に予備校代が払えないというケースであれば、
予備校内でちょっとした手伝い(校舎の清掃など)をすることで
学費の足しにさせてくれたりする学校もあるし、
そもそも、そこまでして予備校に通わないといけないのか、
という話もある。
同級生が皆行くからという理由だけで、予備校に通わないといけないと思っていないか。
確かに効率は悪くなりがちだけれど、
自宅で自習という手もなくはない。

これが実現して丸々1年期間を伸ばしてしまえれば、現時点での合格率にはそもそも意味がなくなる。

このように、こと受験や資格などに関して言えば、
前提そのものを変えてしまえば、
成功率の数値自体を一旦無効化することさえ可能なのだ。

もちろん、無効化した後にはそれ相応の努力が必要になるわけだけれど。

「高確率の成功確率」を追い求めた先にあるもの

にも関わらず、単純に確率的な数値だけをみて物事を決めているとどうなるか。
もちろん程度問題ではあるのだけれど、
拘り過ぎると逆効果にしかならないからだ。

というのは、受験でも資格でも夢追いでも、
鍛錬が浅いうちは、成功率はよほどの天才でない限りは低くて当たり前だからだ。
目標が遥か先にある場合、当然ながら成功率は低く出る。
ただ、そこからどうやっていくか次第で、
この数値はいくらでも変わってくる。
もし仮に、不幸にも才能などがなかったりしていつまでたっても数値が変わらないなら、
その時はじめて、自身の方向や目指す段階を再検討すればいい。

けれど、ハナから成功率の数値だけに拘ってしまうと、
そもそも取れる選択肢があまりない。
繰り返すが、ほとんどのモノゴトというのは、
当初の成功率が低くて当たり前だからだ。

それでも成功率だけに拘るなら、結果的に、最初から成功率が高いものだけを探そうとすることになる。
けれど、最初から成功率が高いものというのは、
言い方を変えれば
「ほとんど練習しなくても誰でもできるようになるもの」
しかありえない。
つまり、自身の能力としてはほとんど成長しない。

成長しないのが悪いという気はない。
それが自分の選択ならば、決して悪い生き方ではないと思う。
ただ、成功率を気にするような人種というのは
えてしてスキルアップやキャリアアップを前提としていることが大半。
つまり、本人は成長したいと思い、しかもそのつもりでいるにも関わらず、
実は全然成長していないという最悪の結果になってしまうのだ。
早いうちなら取りえたかもしれない、
まだ可能性があったかもしれない選択肢を自分から捨てて、だ。

今の時代だからなおさら考えるべき、確率との付き合い方

以上、確率について、いろいろ思うところを語ってみた。

繰り返すけれど、確率そのものを否定する気はまったくない。

ただ、確率と一言で言っても、以上で見てきたように
分野によってその意味合いはかなり違うし、
数値との付き合い方は、
それを使う人間の側が冷静に判断する必要がある。

少なくとも、一歩間違えれば
数値を使っているつもりで実は使われる側になっていた…
となる危険性があることだけは
自覚しておくべきではないか。

AIなどの影響で、これから確率の数字が活躍する舞台はどんどん増えてくるだろう。そうなったときに、賢明な判断ができるかどうかは、その自覚にかかっているようにも思う。

本稿で言いたいのは、それだけだ。

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