壊れてしまった人間を題材とした小説は、国内・海外を問わず数多くみられるけれど、その究極ともいえる作品がある。
それが、ドストエフスキーの『地下室の手記』だ。
『罪と罰』などの代表作に至る、作風の転換期に当たる作品と位置付けられている本作だけれど、そんな説明がヌルく感じるほどに本作は「ヤバい」。
壊れ方の無残さと迫真性において、ここまでの作品はそうざらにはないだろう。
『地下室の手記』の主人公は、かつては役所に勤めていたが、遺産を相続したことをきっかけに仕事を完全に辞め、本人曰く自宅に「立てこもっている」40歳の男。
乱暴に言ってしまうならば、要は引きこもりだ。
本作は、2部構成でそんな彼の手記を公開するという形式をとっており、1章は現在の彼の独白。そして、本題である2章は24歳の頃の彼の救いようのない思い出が描かれる。
構成と言い主題と言い、別記事でも触れた太宰治の『人間失格』を思い出す方も多いだろう。
ただ、『地下室の手記』と『人間失格』には、決定的な違いがある。
根本的なところで、描こうとしているものが違うのだ。
まず一見してわかるのが、主人公の性格設定の違い。共感の持てる部分も残していた『人間失格』に対して、『地下鉄の手記』はまさに「こうはなりたくない」と思う人物像の権化なのだ。
ヒステリックなほどの攻撃性に加えて、極度の自意識過剰。それでいて、実際にはなにもできない、限りなく矮小な男。
人付き合いがまったくなかったわけではないものの、誰からも好かれず、軽蔑される男。
悪いけれど、ここまで魅力のない主人公も珍しい。
もちろん、完全に理性を失っているというわけではないし、「病気だ」という自覚もある。
けれど、そういうかろうじての客観性でさえまったく救いになっていない。それほどまでに、彼はあまりにも見苦し過ぎるのだ。
そんな主人公だから、思い出話と言っても、それは限りなくスケールも小さく、情けない。
話の展開、それ自体の面白みは、皆無と言っても言い過ぎではないほどだ。
ただ、なぜそういう男が主人公を張り、しょぼいストーリーがわざわざ展開されるのかというと、そこにはちゃんと理由がある。
本作はそもそも、社会に何かを物申すという話ではないからだ。
『人間失格』の場合、社会に対する怒りがある面では率直に表現されており、その意味ではボロボロとはいえ社会性はある。
けれど、本作の場合、それさえない。
確かに社会を見据えて毒づいているように見えるのだけれど、『地下室の手記』の主人公は実際には自分のことしか考えていないのだ。
他者の存在を気にしてはいても、実際に意識にあるのは、自分の存在のみ。ただでさえアレな性格に加えて、コレである。
頭の中だけでいくら考えたところで、出口のない堂々巡りにしかならない。
本作のテーマは、その堂々巡りの、救いようのない意識、それそのものがテーマなのだ。
小説内の全てが、徹底的に、主人公の意識の病みっぷりを描き出すことに集中されている分、本作はリアリティの面では半端ではない。
ひとつひとつの場面で、普通ではない思考と、それによる寒々しい行動の流れが、冷酷にただひたすら描写されていく。
壊れた思考回路、そのひとつひとつをまるで実況中継しているかのようだ。
もっとも、それだけのことなら、ドキュメンタリー的と言ってしまえばそこまでだ。
それに、ストーリーについても、前述の通りひたすら情けないだけで、その展開そのものには驚きなどがあるわけでもない。
そんな作品が何故ヤバいかというと、主人公の思考が、実はごく普通に私たちがやっているそれと大差がないことが、読んでいくうちに徐々にわかってくるためだ。
確かに程度の問題はあるし、行動に至るまでの全体をみても、主人公は相当かけ離れた存在でしかない。
にも拘らず、その思考回路と自意識、脳みその中で行われる内部作用に関しては、あまり変わりがないということ。
それが、じわじわと実感されるにつれ、ぞっとするものが背筋を走り抜けていく。
自意識の持ち方ひとつ、それによる行動判断ひとつでも誤れば、自分もこうなってしまうのではないか。
だとしたら、そんな簡単に壊れてしまう自分とはいったい何なのか。
こうした、自己の足元が切り崩されてしまう感覚が本作の持ち味であり、ヤバさなのだ。
後味の悪さはすさまじいが、表面的なホラーなどとは違う、存在そのものが疑わしくなる根源的な恐怖感が体験できると思う。