日常的ディストピアの不穏『定年退食』

藤子・F氏のSF作品には「未来を予見した」と言われるものが少なくありませんが、その中でも老人問題をモロに扱ったことで有名な作品がこの「定年退食」。人口ピラミッドのアンバランスさがいよいよ本格的に問題として語られながらも、何ら有効な手立てが打ち出されていない昨今では相当の切迫感を持って迫る一作です。
ただ、単に老人問題というよりは、もっと根本的なところから私たちの土台に揺さぶりをかけてくるんですけどね。

藤子・F・不二雄『ミノタウロスの皿』作品概要とあらすじ

1973年(昭和48年)「ビッグコミックオリジナル」9月5日号掲載。

収録単行本:
・ゴールデンコミックス 異色短篇集3「ウルトラスーパーデラックスマン」 小学館刊、昭和53年(1978年)2月15日初版、ISBN不明、\320、新書版
・藤子不二雄SF全短篇 (第1巻) カンビュセスの籖(中央公論社)
・藤子・F・不二雄大全集 SF・異色短編 1
・藤子・F・不二雄SF短編<PERFECT版>(2)定年退食
・気楽に殺ろうよ (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)

食料は配給制になり、「二次定年」という老人へのあらゆる社会福祉の停止が実施されている世界(多分近未来の日本)。
そんな世界で、二次定年を間近に迎えた主人公の老人は、日々の食糧をストックしながらも二次定年の延長の抽選に願いを掛けていた。
けれど、天文学的な確率であるその抽選に、そう簡単に当たるわけもない。
そんな中、突如時の総理大臣からその定年の切り下げが発表される…というのがアウトライン。

みてわかるように、本作は老人の福祉問題を前面に押し出したディストピアものです。

 

人が要らなくなった社会という世界設定

テーマ的にはモロに政治的なフィクションになりそうなテーマですが、実際に読んでみると意外にそういう感じは薄い。
これは、描写があくまでも一般市民の生活に焦点が当てられているためです。
そういう意味では、規模縮小に入った社会のシミュレーションとも言えます。

何故食糧が足りなくなったのか。
普通に考えれば食料の生産量をあげればいいんじゃないかと思ってしまいますが、ちらちらと作中で環境自体の悪化がにおわされていることからも、それすら不可能な世界という事でしょう。
見た目は普通の日本ですが、庭の小鳥は機械仕掛けの装飾品になってしまっていることから多分絶滅してしまっているようですし。
その結果としての「ない袖は振れない」という原理が貫かれた作品世界です。

もっとも、環境問題は藤子・F氏の作品群ではかなりポピュラーなテーマですが、本作ではそれはあくまでも舞台設定にとどまっています。
背景がどうであれその結果として生まれる「それほど人が必要ではない」世界がどうなるかという話なのです。

前述の総理の発表では、二次定年とともに一次定年(こちらはいわゆる定年退職)の切り下げも併せて発表されますが、その中で総理は「それ以上の生産人口を必要としません」と述べます。
つまり、そもそも働くことによる社会の改善さえ不可能だということでしょう。
最近は「本当に必要な仕事なんてそんなにない」とか「人間の仕事なんて、結局は環境からの収奪に過ぎない」といったことも言われていますが、それが悪い意味ではっきりと形になった世界とも言えます。

 

それでも社会は成り立っていく

そんな中で社会を維持しようとしたら、老人の扱いがどうなるか…

そんな絶望的な世界観を背景に持ちながらも、社会が一応今日の世界の価値観とそう変わらずに成り立っていることが本作の肝。
細かいディテールを除けば、見た目は今の日本とそんなに変わりはないんですよ。
老人への愛情もなくなったわけではありません。
家庭は家庭としてちゃんと成り立っているんです。主人公の老人に対して家族は体調の心配をしてますし。

それは福祉の打ち切りを宣言する首相にしたって同様です。
老人をハナから無駄扱いするような、単純な悪役ではありません。ただ、社会の維持のためにはもうやむを得ないという無力感がひしひしと伝わってきます。
ただ順番に過ぎない。老人たちの運命は、明日の自分たちの運命だとも彼は言い放ちます。

そうした無力感から生み出される圧倒的な諦念こそが、本作の味わいです。
諦めは、行き着くところまで行くと時に穏やかさを生み出すものですが、その明るさは第三者からみればひたすら悲しい。
ラストの主人公のセリフは敢えてここでは書きませんが、笑顔で吐き出されるその一言は、読者の感情を負の意味でかき乱すこと必至です。

そこまでしてなお維持される社会。
そんな社会の中で、個人の価値とは何なのか。
一読後、自分自身の足元が揺らぐ名作です。

タイトルとURLをコピーしました