怪談人間時計(徳南晴一郎)感想 読者の感覚さえ狂わせる曰くつきの奇書

レトロな漫画文化を語る上で欠かせないのが貸本漫画です。

もっとも、今となっては時代を感じさせるものばかりで、
マニア以外には古書的な価値くらいしか見いだせないでしょうが、
この世界から水木しげる氏や池上遼一氏などが巣立っており、
日本の漫画史において果たした役割は
思った以上に巨大なものです。

もっとも、この貸本漫画の世界は現在の漫画界とは違って
まだビジネスとして洗練されておらず、
戦後すぐのカオスな雰囲気が色濃く残った世界でした。
それゆえ作品ごとの揺れ幅も大きく、
今では考えられないような作品が
平気で書棚に並べられていたのです。

今回ご紹介する『怪談 人間時計』も
そんな「今では考えられない作品」のひとつ。
良くも悪くも、現在であれば出版自体がありえなかっただろう、
特異な作品です。

漫画界きっての奇書『怪談 人間時計』復刊までの軌跡

復刻の機運を生んだ90年代レトロコミックブーム

『怪談 人間時計』は、1962年に曙出版より初版発行。
その後、90年代になって
「マニアの間で10万円以上の値で取引されていた奇書」
とのキャッチコピー付きで復刊されたいわくつきの作品です。

作者である徳南晴一郎氏が貸本漫画家としての活動末期に執筆したものですが、
本作の初版発行当時は、貸本漫画自体が既に斜陽期の入口に差し掛かっていた時期。
ただでさえそんな時期に
のちに「奇書」などと言われるようなアングラな作風の
『怪談 人間時計』が広く受け入れられるわけもありません。

実際、執筆後ほどなく徳南氏は漫画家を廃業。
地元に戻り、市井の人として第二の人生を歩んで行かれることになります。
そして本作も、話題になることもないままに
貸本漫画の崩壊とともに忘れ去られていきました。
その後出現する貸本マニア・古書マニアと呼ばれる人々を除いては、
長らく漫画史の闇に埋もれたままになっていたのです。

ところが、90年代になって、
何故か突然、レトロマンガのブームが起こります。
レトロマンガ専門のムックはもちろん、
『Comic GON!』をはじめとしてレトロ作品の専門誌までが立ちあげられ、
アングラなものからそこそこ知られた作品まで
様々な作品が取りざたされるようになりました。

もっとも、このブームは当時のサブカルの隆盛を背景にしたもので、
取り上げられ方もかなり興味本位なものでした。
ですが、それまで殆ど知られることなく、
埋もれていた数々の名作・怪作が日の目を見たのも事実で、
この時の一過性のブームがなければ
漫画カルチャーは今のそれとはまた少し変わったものになっていたでしょう。

作者自らが復刊を拒否…奇書の裏側にあった曰く付きの経緯

『怪談 人間時計』も、このブームに乗じて復刊された作品の一つです。
復刊をおこなったのは太田出版。
サブカル系の読者のみがターゲットとはいえ、
それまでの作品知名度を考えると信じられないほどの
大々的な復刻でした。

ただ、復刊時の解説によると、
この企画の打診を受けた際に、徳南氏は今更の復刊を良しとせず、
かたくなに拒んだといいます。
結局、かろうじて発行の許可だけは出したものの、
著作権料の受け取りは拒否したといいますから、
出版までの経緯としては相当強引なものだったと言わざるを得ません。

その後かなり経ってから、氏は復刊の事実を許容し、
同じく太田出版から自伝を発行することになりますが、
そこで描かれた作品執筆当時の彼の生活は、
まさに末期的とよぶのがふさわしい、悲惨なもの。
精神的にも相当に追い詰められていたことがうかがえます。

『怪談 人間時計』は、
そんな時期の徳南氏の追い詰められ、極限まで混乱した心情が
そのまま反映されたような代物ですから、
作者にとってみれば、作品が存在すること自体が
トラウマに等しかったのかもしれません。

ただの一読者でさえ、
「そりゃ、復刊なんて願い下げだよなあ…」
と納得せざるを得ないほどで、
復刊を心情的に納得するまでの
氏の葛藤がどれほどのものだったかは、
正直想像もできません。

感覚そのものがおかしくなってくる…『怪談 人間時計』の異様さ

整合性が何の意味も持たない作品世界

復刊までの経緯はこれくらいにして、
『怪談 人間時計』の具体的な説明に移ろうと思うのですが、
この作品、奇書という大仰な売り文句に
まったく名前負けしていない異様な内容で、
正直、説明すること自体が困難です。
というか、文字だけで紹介したところでまったく意味がない。

それでも一応序盤のあらすじだけざっくり解説すると、
主人公は時計屋の一人息子、「声タダシ」。
ある日、自転車に衝突され、
一見心配顔、その実好奇心だけに満ち満ちた
野次馬たちに取り囲まれたことをきっかけに
他人の存在がひどく疎ましくなった彼は、
登校拒否に陥ってしまいます。

店に並ぶ大量の時計たちを「友だち」と呼び、
深夜、店中で鳴り響く時報の音に囲まれて
陶酔することを楽しみとする、病的な生活です。

そんな彼を心配した両親は家庭教師を雇うことにするのですが、
なかなかいい教師は見つかりません。
そんなある日、タダシは
「元小学校の校長」を自称する奇妙な男に出会います。
経歴に惹かれ、タダシはその男を家庭教師として雇うのですが、
実は彼は「時計人間」で、
その影響でタダシ一家の生活は
みるみるうちに崩壊していきます…

…あの、意味、わかりました?

確かに、「説明」として字面を追うことはできたでしょう。
ですが、ひとつの物語として見ると、話のつながりもどこかおかしいですし、
なにより「時計人間」って何だよ、と、疑問しか湧いてこなかったと思います。
ですが、残念ながら、わたしもこの疑問に明快な回答をすることができない。
なにしろ、本作を最後まで読んでも、そこに客観的な答えは何一つ描かれていないのですから。
「そういうもの」としか言いようがないのです。

このように、本作はハナから
物語としての整合性など完全に無視しています。
代わりに本作が重視するのは、
主人公が出会い目にする、
脈絡も何もない、異様な出来事と光景を、
一切のアレンジなくそのまま描き出す。
それだけなのです。

作品内と作品外、両方の現実感を怪しくする危険さ

ヒステリックかつ自閉ぎみの主人公・タダシ。
世間から完全に切り離された彼が目にする光景は、
現実からすっかり乖離した、神経症的なものばかり。
それどころか、作品内で一応「現実」として描かれている出来事にしても
その理由も意味も一切わからないようなシュールなものばかりです。

問題は、それでいながら、一応「お話」としては機能していること。
これが完全にストーリー性を捨てた作品であれば
逆にまだ理解しやすいのですが、
本作では帳尻もあわず、ただただシュールなばかりの話が
わけもわからぬまま、ラストまで進行していきます。
むしろ、そこに描かれたことが本当に起こっているのかどうかさえ怪しいままに。

そのバランスはたとえようもなく座りが悪く、
読んでいるうちに、そもそもどこからが夢で、
どこからが作品内の現実かさえ怪しくなってきます。

そんなただでさえネジの外れた世界が、
歪み果てた、ひたすらバランスの崩れた画風で描かれていく様子を
読んでいると、読者の感覚までがどこかおかしくなってきます。
本を読んでいる自分という、今の状況さえも疑わしくなってくる。

読者の足元の基盤自体を揺るがす、
そんな幻覚のような読み味が本作の醍醐味です。

クオリティの高低が意味をなさない、独自過ぎる作品価値

通常の評価基準では擁護不能の出来だが…

率直に言って、普通の漫画的な基準でみれば、
本作の出来はお世辞にもよいとは言えません。

伏線を軽視し、ただ不条理さを重視した仕上がりは
カフカなどの文学作品を思い起こさせるものですが、
それを前提としたとしても
ひとつひとつの描写や展開の荒っぽさは
どうにも稚拙さを感じてしまいます。

特徴的な絵柄にしても、
「デッサンのレベルであまりにも狂い過ぎている」ために
逆に独特の、アートに近い味が出てはいるのですが
普通にみれば単に「下手」、もしくは「雑」という
感想になってしまう方がほとんどでしょう。

作為一切なしの奇跡的なバランスが生んだもの

ただ、本作の場合、それらの要素それぞれを
単体で見て評価することにはあまり意味がありません。
一般的な価値基準ではどうにも評価しようがない不出来な要素たちが、
どうしたことか、奇跡的に複合して相乗効果を生み、
その結果としてありえない世界を作り出した、
といった風情だからです。

もちろん今となっては確認する術はありませんが、
どうみても緻密な計算の上に創られたものとは思えません。
あくまでも、本作が生まれたのは
「たまたま」に過ぎなかったのだと思います。

ただ、一つだけ断言できるとしたら、
この、何から何まで狂い果てた世界が生み出されたのは、
まさにその作為のなさゆえだということ。

もし少しでも合理的な戦略や計算を入れていたら、
こんな異様な作品にはならなかったはずです。
作者の破綻寸前の生活の中で徐々に蓄積された、
同じように破綻した妄念や想像がほとばしるように
無作為にぶつけられた果てに、
本作の、読者まで感化する影響力、
純度100%の狂気があるのです。

自分語りの妄想を思わせる内容だからこそ感じる恐怖

もっとも、本作は異様さだけはだれしもが認めるところでしょうが、
読後に何を読み取るかは読者によって様々でしょう。

わたし自身の私見でいえば、
自身が追い詰められたときにしばしば無意識に浮かんでくる、
脈絡のない、自分が主人公になった妄想を思い浮かべます。

心の中での、自分語り。
その内容は明るいものであったり、暗いものであったりと様々ですが、
いずれにしても、そこには「一切の出口がない」という共通点があります。
どんなに緻密な妄想であっても、
そこには外に通じるものは何一つない。

その閉塞性は、本作で展開される、
明るいのか暗いのかさえよくわからない、
調子っぱずれのタダシの世界の見え方に酷似しています。

一見なんとか現実を過ごしているように見える自分も、
意外と、タダシと紙一重の位置にいるのかもしれない。
そう思わせるだけの、ある種の親和性が存在すること。

それこそが、わたしが本作に対して感じる恐怖感の根源になっています。

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