ゲームで原作ものというと、おおかたは漫画やアニメなどが題材になりがちですが、
ごくまれに文学作品を主題にした作品というのも存在します。
もっとも、最近では必ずしもそうではないとはいえ、
原作ものは元の知名度に頼った作品も多く、
質には難があるものが少なくない。
特にファミコン時代のそれは、
例外もあるとはいえ、ひどいものでした。
ここで取り上げる「彷魔が刻」は文学作品を題材とした異色の原作ものですが、
内容に難があるという点では他の原作ものと同じです。
ただ、「どのように難があるのか」という部分で、他のクソゲーたちとは少し趣を異にする異色作なのです。
二重人格を扱った草分け 原作「ジキル博士とハイド氏」
本作「彷魔が刻」が題材とするのは、
「ジキル博士とハイド氏」。
作者はロバート・ルイス・スティーヴンソン。
二重人格を扱った作品としては草分けかつ世界的な有名作です。
ジキルの知人であるアターソンによる回想と、ジキル博士自身の告白から構成されており、両者の視点から「ハイド氏」による数々の暴力とその結末、そしてその裏の真実が語られます。
当初はただの実験の産物にすぎなかった凶暴な二重人格「ハイド氏」に
本来の人格を徐々に乗っ取られていくジキル博士の苦悩と破滅を
克明かつスリリングに描きだしていきます。
自分の人格そのものの制御が効かなくなっていく焦りと
坂道を転がり落ちていくような絶望感は、
この手の作品でも屈指でしょう。
テーマそのものは重いのですが、ミステリ的な娯楽性が高く、
さらに展開はスピーディなので、海外翻訳ものに不慣れでも読みやすいのが特徴です。
独創性が仇になった…「彷魔が刻」のゲームシステム
ふつふつ疑問が湧いてくる「彷魔が刻」のシステム
さて、そんな原作をどうゲームとして落とし込んだのか。
「彷魔が刻」では、婚約者ミリセントとの結婚のために教会へと向かうジキル博士の道のりを
全6ステージで描いています。
ちなみに、ミリセントは原作にはおらず、
後年の映画版で新たに設定されたキャラクターですが、
エンディングでしか登場することはないのでプレイ中に意識することはないでしょう。
ジャンルはライフ制のアクション。
ただ、当時RPGブームが起こり始めた時期ということもあってか、
当時の広告にはなぜか「RPG」と表記されていました。
もっとも、レベル上げも何もない横スクロールの画面は、
スクショを見た時点でアクションであることが丸わかりでしたが。
さて、ここまでの説明で、
賢明な読者の皆さんは疑問を抱いたのではないでしょうか。
いかに結婚式が一大イベントとはいえ、
なぜ、たかだか教会に向かうという、それだけのことが
6ステージにもおよぶアクションゲームとして成立しうるのか。
それに、この設定にハイド氏がどう絡むというのか。
これらのクエスチョンに対し、
本作はある意味で、とてつもなく独創的な発想を持って応えています。
世界の全てが敵…ジキル博士の救いようのない道のり
まず、最初に書いておかねばならないことは、
本作におけるジキル博士の四面楚歌っぷりです。
やることは、前述の通り、
平和な街並みをただ教会に向かって歩いていくだけ。
ただ、それだけのはずなのですが、
原作ともっとも異なるのは、
平和なはずの町の住人たちの行動、ひとつひとつが
ジキル博士への攻撃に他ならないという事です。
いたずらのつもりか、博士に向かってパチンコを撃ってくる少年。
隣人の喧嘩なのか、窓を挟んで鍋やら調理器具やらを投げつけ合う住人(投げられたものたちは道路をゆくジキル博士を直撃)。
某作の殺人的音痴で知られるジャ〇アンのごとく、人の迷惑も顧みずに街角で熱唱するご婦人(音符に触れるとダメージ)。
吠えたて、噛みついてくる野良犬、いきなり凶暴化する猫。
公園でよくわからない動きで博士に攻撃してくる蜂と蜘蛛。
頭上からよくもまあこれだけ出るなというほどにジキルの頭上に糞尿を垂れ流す野鳥。
そして、その野鳥を街角にも関わらずハンティングしまくる常識はずれのハンター(撃ち落された死体は当然のように博士の頭上に)
…他にも挙げていくときりがない、障害に満ちた道のりなのですが、
これにとどめを刺すのが「爆弾魔」。
平和な街並みと言いましたが、
一見のその印象に反してなぜかこの街、爆弾魔がたびたび出現する無法地帯で、
彼はところかまわず、ジキルの目前に爆弾をセットして去っていきます。
そして、当然のように逃げ惑う住民たちに弾き飛ばされ、
逃げるに逃げられないまま爆発に巻き込まれるジキル…
いくらなんでもあんまりです。まさに、「この世界の全ては敵だ」。
(※漫画「かぐや様は告らせたい」がヒット中の赤坂アカ先生の前作、「インスタント・バレット」のキャッチフレーズ)
それをどうにかこうにか、ジャンプや見も知らぬ民家に避難(ドアに一定時間侵入可能)することで
なんとかかわしながら教会に近づいていく、というのが本作のアクション要素です。
ただ、ジキル博士の動きが相当にトロい上、武器であるはずのステッキは何の役にも立ちません。
その上あまりにも敵の動きがたちがわるいため、パターン化さえままなりませんが…
本作の独自機軸・ストレスメーターと、ハイド氏を待つ末路
さて、本作はライフ制ではあるものの、実は上記の攻撃では、ライフはあまり減ることはありません(爆弾の直撃を食らった場合を除く。この場合は運が悪いと即死です)。
その代わりに、本作にはライフとは別にもう一つ「ストレスメーター」という指標があり、
これがジキル博士が攻撃されるごとにどんどん「上昇」していきます。
そして、ここで登場するのが、ハイド氏なのです。
ストレスメーターが限界まで上昇し切ったとき、
いきなりBGMが停止します。
一瞬の無音時間の間に道路にひざまずくジキル博士。
続けておどろおどろしいBGMが鳴り響き、画面は暗転します。
そして、平和な昼の世界だったはずの背景は
廃虚のような夜の光景に変化。
そんな別世界にいきなりハイド氏が現れます。
そして、昼の世界とは打って変わって出現する
怪物たち相手に破壊の限りを尽くします。
初見だと何が起こったのかさえ分からないと思いますが、
このモードは、ハイド氏がジキル博士としてために貯め込んだうっ憤を
ここぞとばかりに晴らしているという設定で、
怪物たちを破壊すればするほどどんどんストレスメーターが減っていきます。
(ただし、ジキルモードではほとんど減らなかったライフの方は、
ハイドモードでは攻撃を受けるたびにガスガスと減っていきます)。
そして、ストレスが0になったとき、再び画面の暗転とともに、
ハイド氏は眠りにつき、ジキル博士は正気を取り戻すのです。
作品内で一切説明がないためにこのハイドモードで
実際には何が起こっているのかはプレイするだけでは理解できません。
ですが、説明書によると
「ハイド氏に変身した博士の眼と心に映るすべてのものが、醜くおぞましい姿に変わり」
とあることからもわかるように
ハイドモードは現実でハイド氏が行っている蛮行を、
主人公としての、言ってみれば脳内の主観で描写したものなのです。
恐らく、実際に何をやってるのかは、任天堂の倫理コード的にも表現不可能だったのでしょう。
ただ、そんなことをしてタダで済むわけがないのは原作に忠実。
ハイドモードは、廃虚のように変化しているものの、
ジキルモードの各ステージを鏡移しにしたものになっており、
ハイド氏はそれをジキル博士とは逆向きに歩いていきます
(ジキルモードとは違い、こちらは強制スクロール)。
これだけなら、ただの逆モードなのですが、重要なのは、
ジキル博士がハイド氏に変化した地点までハイド氏が歩ききってしまうと、
その時点でハイド氏の悪魔の人格に善良なジキル博士が飲みこまれたとみなされ、
その場で落雷に打たれて絶命(即ゲームオーバー)
ということです。
原作の要素を活かすという意味では、確かによく考えられています。
システム的なオリジナリティについては、満点と言ってもいいでしょう。
ただ。
その独創的さ加減が、
ことごとくプレイヤーに苦痛を強いるというのが、
本作の最大の問題点なのです。
なぜこうなった…ひたすらイラつく「彷魔が刻」のゲーム性
とにかく、プレイ中を通してプレイヤーが感じる
イライラは半端なものではありません。
しっかりとシステムも雰囲気作りも考えられている。
けれどそのすべてがマイナスに働いたという、
ある意味では珍しい作品といっていいでしょう。
一からげにクソゲーとみなされることの多い本作ですが、
各要素を個別に見れば、決してレベルは低くありません。
グラフィックやBGMも作品舞台の時代性を十分に感じさせてくれるもので、
単調ではありますが、上品。
文学的な香りを感じさせる設定も含め、演出面ではかなりしっかりしています。
目立ったバグなどもありません。
そして感情移入する点では抜きんでているのも事実(不快さの方にですが)。
前述のように、当初RPGとも広報されたこともある本作ですが、
「役になり切る」ことをRPGの本義とするのであれば、このジャンル表現は決して間違ってはいないのです。
ただ、いかんせん「娯楽」としての完成度だけが低すぎた。
ゲームというエンタメは「楽しい」「怖い」などの方向性の違いはあっても
プレイヤーを楽しませることが大前提ですが、
本作で強いられるのはただの「苦行」です。
異端作だが、ひしひしと伝わる製作者の執念
以上のような内容ゆえ、どうしたって万人に薦められる作品ではありません。
クソゲー好き、あるいは物見遊山の方でもかなりつらいはずです。
筆者はこれを当時定価で買いましたが、
子供ながらにまるで作中のジキル博士のごとく頭を抱えた思い出があります。
けれど、その一方で私は今でも、本作を十羽一からげに切って捨てることができないのです。
それは、この作品に感じる熱です。
ハッキリ言って、売ろうとして作ったとはとても思えない。
いくら原作ものとはいえ、売ろうとするなら他に適した作品はいくらでもあります。
そこを敢えて「ジキル博士とハイド氏」を選び、
敢えてこの、どう見てもエンタメにはなりえないシステムに落とし込んだというのは、
その時点で得体のしれない執念を感じざるを得ません。
一体、本作の制作者はこの作品で何を言わんとしたのか。
今となっては謎ですが、その執念をもって描こうとしたものを
願わくは(そしてまずありえないでしょうが)、
今の高度化したハードでリメイクして表現してほしいとも思うのです。
そして、ジキル博士の感じた、ハイドという自身の狂気に飲みこまれていく焦燥を、
今度こそ広く受け入れられる形でパッケージングしてほしい。
少なくともユーザーとシンクロさせるアイデアに関してはあれだけ長けていたのですから、
今の技術をもってすれば、それは決して不可能ではないと思うのです。
もちろん、仮にできたとしても、異端作であることに変わりはないでしょう。
ですが、「普通の人」が当たり前とする正気や正義が、
実はたいしたものではなく、それどころか少なからず狂気をはらむものであることが
明らかになってきた昨今だからこそ、
敢えてユーザーにジキル博士の狂気を追体験させることには大きな意味があるのではないか。
筆者にはそう思えてなりません。