夢野久作『ドグラ・マグラ』意識そのものへの恐怖を突く奇作

わたしたちはよく「自分が信じられない」といった言葉を使う。
とは言っても、ほとんどの場合、本当に信じられないというほどではない。
少し前の自分の行動への後悔だったりと、せいぜい自分の判断基準の不確かさを嘆く程度の意味あいに過ぎない。

だから普段あまり気づかないのだけれど、本当に「自分が信じられない」状態というのがいかに恐ろしいものか。
自我への信頼があってこそ、自分が見ている世界はそれなりの説得力を持ち得る。
逆に言えば、それがないなら、自分も世界も何一つ信じられないということに他ならない。
想像することしかできないが、そうなったときの絶望感・恐怖感はどれほどのものだろうか。

自我への不信感をシミュレートした奇作 夢野久作『ドグラ・マグラ』

かつて、それをあたかもシミュレートしようとしたかのような作品がある。
夢野久作の代表作にして奇作、『ドグラ・マグラ』だ。

物語は、自分が何をしてきたのかはおろか、自分が誰なのかさえ分からなくなった、一人の入院患者。
彼には、時間の感覚さえおぼつかない。
そんな彼が幽閉されている個室に一人の医者が訪れることから、この奇怪な物語は幕を開ける。

本作は、当初は「探偵小説」と銘打って出版された。
このキャッチフレーズ、確かに構造としては間違っていない。
物語の軸として一つの事件が設定されているし、彼が記憶を取り戻そうとすることが、イコール事件の解決につながるためだ。
調査の対象が自分の脳裏であることを除けば、という注釈付きではあるけれど、そう考えれば確かに自分の記憶を探る彼の営みは、まさに探偵の調査活動を彷彿とさせる。
これは、その通りだ。

ただ、実際に読んでみて、本作を探偵小説というジャンルにカテゴライズする読者は、少なくとも今日ではまずいないのではないか。
理由は二つある。ひとつは結末の締め方。そして、もう一つは、文章そのものだ。まったく探偵小説という感じがしないのだから。

異常なまでの読みづらさと、怒涛の伏線回収

結末の締め方については後述するとして、文章に関しては本作は異常なまでに読みづらい。
先にハッキリ言ってしまうが、読者に忍耐を強いるタイプの作品だ。
途中で挫折してしまったという感想も、珍しくない。

なにしろこの作品、大著といっていい長さにも関わらず、直接ストーリーが進行するパートは一部だけ。
主人公による地の文(ストーリーパート)以上に、登場人物である大学教授が記した論文やら大衆啓発のための原稿やらが大半を占めているのだ。
しかも、それらが提示される時点では、その糞真面目で面白みの欠片もない論文パートや、人をおちょくったような啓発原稿がどういう意味を持つのかは明かされていない。
つまり、読者としては、わけもわからないままに突拍子もない原稿を次々に読まされるという状態に陥るのだ。
これは、つらい。わたし自身がこのパートで何度か挫折したから、この辛さに関しては自信を持って保証できるし、これが本作を読破する上での最大の関門と言っていい。
ただ、その関門さえ超えてしまえば、後半の怒涛の伏線回収は見事。ようやく読み切ったつまらない論文などがいちいち意味を持って読者に迫ってくる。
人間の思考というある意味極小の世界をテーマにしていながら、このスケールの大きさは圧巻だ。

ただ、本作において何が恐ろしいかって、先ほど保留した結末の締め方に、まさにその原因がある。
ここまで大規模な伏線を回収しておきながら、主人公の置かれた立場、それ自体は何一つ解決しないのだ。

価値観そのものを揺るがす『ドグラ・マグラ』の恐怖

本作はその複雑さもあって、文学的評価はもちろん、作品のテーマそのものについても意見の分かれている作品だ。
実直な医療批判、ブラックな目線から見た欺瞞的な社会の風刺、ディストピア思想と倫理…一読後、読者が抱く印象はそれこそ一人ひとりで異なるだろう。
それほど内包している要素が多いのだ。それこそ意識的に考えようとすればいくらでも新たなテーマが考えつくほどで、そういう意味では極めてアカデミックな小説と言える。

ただ、そうした側面を前提としたうえで、どんな読み方をしようと通底するのは、最終的に主人公がたどり着く、あまりにも心細い世界だ。

なにしろ、主人公は結局自分を信じられないままなのだ。
「探偵ごっこ」の末にようやく導き出した結論も、辻褄があっているというそれだけで、単に「可能性の高い仮説」どまり。
要するに、「信じられるものは何一つない」まま、この大長編は終わってしまうのだ。

そこに至るまでの過程では「いかに自分の思考が当てにならないか」「いかに行動がコントロールされやすいのか」といった、個人の尊厳そのものを冒涜するような理論がとうとうと展開される。
そしてストーリーは、それによってより泥沼にはまっていく主人公の姿をまるで幻想小説のように、しかし克明に追い、そして個人の脆さを的確に補完していく。
読んでいるこちらの価値観さえ、徐々に突き崩していくように。その頼りない感覚は、尋常ではない。

読み終わった段階で、「これは何だったんだろう…」と呆然としてしまう本というのもそうそうない。
その表現形式の奇抜さから奇書という印象ばかりが目立つけれど、本作はそれ以上に、私たちの一番根源の恐怖感を巧みに突いてくる最もまがまがしい恐怖小説なのだ。

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