『右曲がりのダンディー』レビュー 幸福な時代が生んだ、軽薄の思想

労働市場において非正規雇用が半数弱を占め、
正社員という身分が一種のステータスとなってしまった今では
信じがたいことだけれど、かつて日本には

「サラリーマンなんてダサい」

とされた時代が確かにあった。

実際、親世代の方と話す機会があると、
話の節々にそうした価値観が感じられることは多い。
彼らの大多数はサラリーマンとして定年まで勤めあげた立場なのだけれど、
それはあくまで生活の安定のためであって、
生き方としては決して「面白いものだった」とは思っていないのだ。

残念ながら、わたし自身はそんな幸運な時代を知らない。
社会人になった頃には、そんな時代はとうの昔に過ぎ去っていた。
だから、感情としては受け入れがたい。
安定した雇用がある、それだけでもどんなに人生が違ってくることか。

ただ、考えてみれば今でも独立を煽る著名人やインフルエンサーが絶えず、
しかもそれなり以上の支持者を獲得している現状を考えると、
本質的なところでは、サラリーマンという生き方に対する見方はかつてとあまり変わっていないのかもしれない。

つまり、毎月の定収と引き換えに、
老後に至るまでの長期間、身を粉にして働くという人生を
「しょっぱい」と見る見方だ。
もっとも、ブラック企業の存在が取りざたされるようになり、
正社員であっても伸びしろが保証されない今だからこそ、
なおさらなのかもしれないけれど。

サラリーマンを徹頭徹尾カッコよく『右曲がりのダンディー』

さて、現状はさておいて、過去において
このような「サラリーマンなんてつまらない」という価値観が
一番猛威を振るったのは、やはりバブル期だろう。

高度成長期までは、そもそもサラリーマン以外の生き方は
ごく一部の才能や幸運に恵まれた層を除いてはそもそも存在しなかった。
選択肢自体がなかったのだ。

その点、バブル期は、社会全体に余裕が生まれた時代だ。
今でいうフリーターというありようが生まれたのもこの時代だし、
生き方の選択肢というものが、ほんのわずかずつであっても
意識され始めた時代と言えるだろう(後年への悪影響はさておき)。
もちろん、実際にそれを選択するのは割合的にはごくわずかだったろうが、
一種の羨望を持って迎えられたことは想像に難くない。
だからこそのサラリーマンという立場が、
価値観の上だけであっても、相対的に下落したのだ。

そんな時代に、敢えて
サラリーマンという生き方をひたすら美化し、
徹頭徹尾「カッコいいサラリーマン」像を描き続けた作品がある。

末松正博氏の『右曲がりのダンディー』(講談社・モーニング連載)だ。
単行本の発売時期が86年から90年にかけてだから、
まさにバブル前夜から、それが最高潮に達するあたりの時期の作品に当たる。

ありえないギャグの向こうに見える幸福なライフスタイル

理想のサラリーマンによる「ファンタジー」ギャグ

本作の主人公は一条まさと。
巨大プロジェクトに関わるエリートサラリーマンであり、
社内でも並ぶもののない仕事能力を持つ。
当然高給であり、外車を何台も所有。

さらに、会社中の女性社員に憧れられるイケメンであり、
本人もまったく自重しない。
スケジュール帳には、多数の女性社員、社外の女性たちとの
デートの予定が連日書き連ねられている。

その一方で、一般の世間に迎合しない…というか、
一般の小市民には理解しがたい、突拍子もない行動原理を持ち、
その生活習慣は、かなりぶっとんだ独特なものだ。

そんな彼の優雅な暮らしぶりを、
主に女性たちとのアフターファイブ中心に描いた
ギャグマンガだ。

設定をみればお分かりいただける通り、
バブル期ということを差っ引いてもあり得ない、
あからさまなファンタジーだ。
こんな奴、いくら当時でもいるわけがない。

もっとも、ジャンルがギャグ漫画というのがポイントで、
本作はハナから真面目な顔をして読むような作品ではない。

一見カッコいいばかりの一条の、
冷静に見たらアホらしいとしか言いようのない
行動原理が笑いどころであり、
そこを楽しむべき作品だ。
もちろん、男性読者としては
「いいなあ、うらやましいなあ」という感情も込みでだが。

不思議と元気が湧いてくる、一条まさと流のおバカなライフスタイル

サラリーマンものとは言ったものの、
実は本作には、サラリーマンものにお決まりの
仕事における具体的な業務内容に関わる描写はほとんどない。
(もっといえば、勤務先の業種さえも明確には描かれない)

つまり、仕事の内容そのものは、
まったくと言っていいほど本作では重視されていないのだ。

前述の通りギャグマンガなのだけれど、
それを考えても異常なほどの割り切りと言える。
代わりに本作で重視されているのは、むしろ、
一条まさとという人物のライフスタイル、そのものだ。

前述したように、彼の生活は完全に空想の産物だ。
一般人には、どう転んだって実現できるものではない。

けれど、それでも彼が作中で提示する生活ぶりは、
滑稽な一方で、
「サラリーマンという立場でもこういう華麗な暮らしをなしうる」という
夢を具現化したものだ。

この点でポイントとなるのが、
ド外れたエリートサラリーマンかつモテ男でありながら、
一条は自分ひとりの私生活に限って言うなら、
意外とみみっちいこと。

仕事面や女性たちとの関係と違い、
彼のプライベートは
金持ちという部分や、ギャグとしての滑稽さは別にして、
思った以上に「普通」なのだ。

また、これらのエピソードはネタ的にも身近で、
たとえば朝、起床後から出社までの時間の過ごし方など、
普通のサラリーマンでも日常的に意識するものが多い。

それだけに、普通の読者でも共感ができるし、
部分的ならば意外とマネできるんじゃないか、
自分もサラリーマンとして、多少なりともこの生活に近づけるんじゃないかと思われてくれるものがある。

そういう意味で、ギャグマンガであるにも関わらず、
ライフスタイルの提示力は圧巻。
「バカだなあこいつ」と思いながらも、
日々の仕事に疲れた時に読むと、
不思議と元気が湧いてくる仕上がりになっている。

軽薄ゆえの「悩むというコト」への素朴な疑問

ライフスタイルの提示という点からいうと、
本作でもう一つ特徴的なのは、
作中通して、主役である一条は悩むことが皆無だということだ。
元々有能というキャラ設定も大きいけれど、
本心から深刻な表情をしている描写がまったくないという、
ある種極端な設定になっている。

こうした性質は、女性たちとの人間関係においては顕著に現れている。
本作に登場する数々の女性キャラクターたちは、
主役である一条にくらべればはるかに普通の人々で、
程度の強弱はあれ、相応の悩みも抱えている。

では、一条がこれらにどう応対するかというと、
否定も肯定もしない。
助けられる面での助力は惜しまないけれど、
深刻に受け止めることはほぼ一切ない。
ただ、軽々と受け止め、それを受け流す。

そこに通底するのは、
「あれこれ重く考えても仕方がない」
「理屈はどうであれ、楽しくあることが最善」
という価値観だ。

見方によっては、軽薄ともとれる考え方ではある。
人によっては、モテ男という設定も相まって
嫌悪感さえ催すかもしれない。

けれど、考えてみれば、
価値観として、重く考えること、それ自体はそんなに重要なことだろうか。
最初からそんなことを考えずに済むのなら、
それは素晴らしいことではないか?
ただただ楽しく生きられるのであれば、
それに越したことはないのではないか?

もちろん、それが難しいことは誰でも知っている。
けれど、だからといって、
それを前提とし、当たり前とし、当然とするのは
何かが違わないだろうか。
悩むことそれ自体が素晴らしいなどとおもってしまっていないか?

作者である末松氏がどこまで意図したかはわからないが、
浮世離れした一条が提供する視点は、
結果的にはあるけれど、
「重い思考」そのものを尊ぶ、現代の本末転倒っぷりへの
率直な批判になっている。

 

重い時代に光る、軽さという「思想」

正直に書くが、本作は今の時代にはあまりそぐわない。
土台となる時代背景が発表当時と現在では違い過ぎるし、
基本設定にしても下手すれば炎上しかねない要素は少なくない。
今となっては、あまりの状況の違いに、
笑おうにも笑えない立場の人だって少なくないだろう。

その点から言えば、本作『右曲がりのダンディー』は、
あの幸運な、余裕のあった時代だったからこその産物であることは間違いない。

ただ、だからこそ、
本来のギャグマンガとしての意味合いとは別に、
本作には今の時代ならではの価値が生まれている気もするのだ。

かつての日本に、これだけどうしようもなく軽薄で、
けれど幸福な時代があったことの記憶として。

そして、今という時代が失ったものが、
たとえそれがやむを得ない変化であるにせよ
どんなに大きいのかを思い出すきっかけとして。

敢えて今、一読すると、
作中でのある種浅い思考が、
逆に今の重苦しい世の中では
驚くほどに爽快に感じることに気が付くはずだ。
それはまるで、一種の悟りにも通じる、
人生に対する思想であるかのような輝きを放っている。

…この記事自体が、本作と、そして主人公の一条まさとが笑い飛ばすだろう
「重苦しいもの」そのものであることは
正直不本意ではあるけれど。

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