経済合理性への虚脱感 『何もしない課』がマシに見える世界で

20世紀と21世紀の労働環境において一番大きく変わったことといえば、リストラや雇用の抑制が「当たり前」になったことではないでしょうか。
もちろん、それまでもリストラがなかったわけではないし、それどころかそれ以上にひどい労働問題だっていくらでもあった。

ただ、それは規模の問題で、目に見えるほどではなかったし、あくまでもイレギュラーという扱いだった。
つまり、少なくとも価値観の上では、普通にやってればなんとか会社に入り、出世し、勤めあげられるという信頼感はあったわけです。
今となっては遠い昔という感じですが…

 

70年代にリストラ部屋を予見した『何もしない課』

さて、リストラと言えば、一時期その手口として話題になったのが「リストラ部屋」です。
クビ候補を配置転換で一部屋に集め、そこでは一切の仕事をさせない。
それどころか、ただただ執拗に転職せざるをえない状況に追い込んでいく。

そのえげつなさは当時かなり激しく非難されたものですが、それでもいまだにこの手法をとっている企業の話は散見されます。
そして、こうした話が出るたびに、セットで語られていた作品が、藤子不二雄A氏のブラックユーモア短編『なにもしない課』です。

それまで営業課でバリバリやっていた一人のサラリーマン。
けれど、上が起こしたトラブルの余波を押し付けられ、社内で末端と言われる部署に飛ばされてしまいます。
落胆しながらも、新たな部署に出社する彼。
しかし、そこにはやるべき仕事、それ自体がなかったのです。それでいて、勤務時間中は部屋から出ることも許されない。
余剰社員をかき集め、飼い殺しにする。そのためだけの部署。

彼はそのやり方に憤慨しますが、先輩たちは彼をなだめます。
これはこれでわるくないですよ、と。
実際、そこに集められた社員たちは、寝るわマージャンをするわで文字通り暇をつぶしています。
まがりなりにもそれで給料は貰えるというのですから、確かにアリと言えばアリです。

ですが、彼にとってなんら生産性のないその時間は、やはり苦痛でしかありませんでした。
そして、一見割り切ったように見えたその先輩たちにしても、それは同じだったのです―――

結末までの流れは敢えて書きませんが、最終的に主人公が「意地でも会社にしがみついてやる」と決意するところで本作は幕を閉じます。よくリストラ部屋を予見したとも言われる作品だけに、今となってはA氏のブラックユーモアが語られる際にはまず間違いなく話題に上る一品となっています。

 

現実はブラックユーモアよりも奇なり

もっとも、こうやってみると、現実よりはマシじゃないかと思う方も多いでしょう。
曲がりなりにも「会社にしがみつく」ことは可能だし、別に四六時中責められ続けるわけでもない。

繰り返しますが、本作はあくまでも「ブラックユーモア」です。もともと読者が限られるジャンルとはいえ、当時の読者は、その異様な毒っ気の強さにゾクゾクするものを味わっていたはずなのです。あくまで、フィクションとして。それは、ある意味ではホラーに似た味わいだったでしょう。ですが、描かれた当時は充分にホラー的だったであろう本作さえ、現実は軽々と乗り越えてしまった。まさに「人間は思っていた以上に残酷だった」わけです。

それに、本作はリストラ部屋自体の預言というよりも、人間がいかに無為な時間に耐えられないかという方が主題ではないかと思われます。
たとえ金がもらえようと、たとえ好きなことをどれだけできようと、周囲に認められることのない「無駄」を強制的にやらなければならない。
よく砂山を作っては崩し作っては崩し…という話が責め苦として例に挙げられますが、まさにその企業版です。
別に上等なものではなく、純粋に自分が意味ある時間を過ごしたという実感。それが得られないのは拷問に等しいのです。

だから、舞台の発想としては確かに予見的でも、テーマの本筋的にはリストラ云々からはすこし外れた作品かな、と個人的には思っています。
ただ、それだからこそ逆に、現代の状況の怖さが思い知れるのは確かです。
なにしろ、その「無駄な時間を過ごすこと」さえ、許されないのが今の世の中なんですから。
場そのものを奪われることが、経済合理性という名のもとに正当化されているのですから。

自然な感情さえも利用しつくす、物語以下の秩序のなさ

最近、よく若い世代が無気力だといった言説をよく見かけますが、それはある意味当たり前ではないかと思います。
リストラや雇用抑制、それ自体は仕方がないとしても、それを「当然」とみなしているような相手を信頼できるわけがありません。
それは、単なる生活の成立はもちろんとして、人間としての生き甲斐を奪うのが当然だと言っているに等しいのですから。
そんな世の中ばかりをずっと見てきた世代が、気力を失うのはむしろ自然な流れなのではないでしょうか。

そんな若者たちを、ただ「甘え」といって切り捨ててしまうのか。
現在、個人的に一番危機感を覚えるのは、そんなある意味自然な感情すらも罵倒され、ブランディングのネタとして利用される、今の流れそのものです。
影響力の強いポジションの著名人までもが無責任な煽り発言を繰り返すのをみるにつけ、一介の中年世代として虚脱感を覚えてしまうのです。そこには、物語としてのブラックユーモアにある、最低限の秩序さえもありません。ある意味では、物語を超えた最悪のブラックユーモア。

物語としてまとまりのよい『何もしない課』を読み返すたびに、皮肉にもそんなことを考えざるを得ないのです。今、本作に目を通すと、そのストーリー自体の妙以上に、まだ経済合理性なんて言葉を誰も知らなかった時代への不思議な感慨に打たれるはず。結果的にではありますが、作品そのものの出来とは全く別に、なんとも複雑な立ち位置に置かれてしまった数奇な作品と言えるでしょう。

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