モラルなんて世間次第 藤子Fがえぐり出す常識の不安定さ

常識なんて、しょせん社会の決め事に過ぎない。
その個々の社会が何を重視するかによって、常識の基準は簡単に入れ替わってしまう。
それは、現実の世界を見てもわかる通りですが、SF作品では現実よりもさらにドラスティックな転換が行われます。

もともとこうした視点というのは、SFというジャンルにおいては昔から一大テーマです。
常識外の世界を描くというのは、もっともわかりやすく異世界を提示する手段というのもあるでしょう。

当然、藤子SFでも常套手段のひとつで、あの手この手で我々からみて「非常識」な世界が描かれます。
『気楽に殺ろうよ』も、この常識の転換に主軸を置いた作品の一つですが、タイトルが示すように他作品に比べてもより露骨な価値観の転換した世界が描かれています。

『常識が逆転した世界』を日常のものとして描く

ある朝、強烈な頭痛とともにどことなく違う価値観の世界に迷い込んでしまった主人公のサラリーマン。
そこには見慣れた妻も娘もいますし、同僚もご近所さんも今まで通りです。
見た目はまったく普段と変わらない。それなのに、根本的に何かが違う。

精神科医との面談で、その違いが明らかにされます。
カーテンまで閉め切って、まるで秘め事のように行われる朝食。
娘にシンデレラの絵本を読んであげようとしたら、結末にベッドシーンまでが絵入りでモロに描かれている。

「ヘンでしょ!」と詰め寄る主人公に対し、精神科医は言います。
食事というのは個人的、いわば独善的な欲求。
性欲というのは子をなす、すなわち社会の維持という意味において公益性のある欲求。
いずれが恥ずかしいことですかな、と。
つまり、食事は当たり前なこと、性は恥ずかしいものといった、「今の社会」における常識が丸々逆転してしまった世界なのです。

常識のずれを描く作品というのはともすれば壮大なネタになってしまいがちですが、敢えて卑近な日常生活の中でのこととしてそれをえがいているのが本作の特徴。身近なだけに、余計に異様さが際立っています。

ほんの少しのズレで逆転してしまう、人間のモラルの頼りなさ

ただ、ここまでならまだ牧歌的なもので、この世界の逆転っぷりはここからです。
駅で出会った、知人の女性と食事をしようとする(つまり、この世界においては浮気に相当する)同僚。
彼は、主人公の目前、自分の奥さんに白昼堂々殺されてしまいます。
しかも、一切の動揺も見せずに「主人がお世話になっておりました」と挨拶する奥さん…
この世界では、一定のルールの範囲内では、殺人が公認されているのです。
実際に、許可証さえ得ればよく、それは金銭で売買されたりしています。

これこそ私たちの常識では不条理の極みですが、そんな主人公に対し、精神科医は言い放つのです。

個人同士の火種は、個人同士で解決してもらった方が合理的だ、と。

言うまでもなく、その理屈はわたしたちにとってはありえません。
なんじゃそりゃ、という感想しか出てこないでしょう。
出てこないのですが…感情はともかく、理屈としては一応通ってしまうあたりがこの作品の恐ろしさなのです。
ただ、社会を維持していくうえで、そのやり方をどう考えるかというその土台の部分が少しずれただけで、ここまで恐ろしい理屈がまがりなりにも成り立ってしまうという…
本作の精神科医の見事な「治療」は、その常識の頼りなさというのを思い知らせてくれます。

ただただ猛烈な後味の悪さがじわじわくる

こうして無事治療完了した主人公は、すっかりこの彼にとっての新世界の常識になじんだ状態で家に戻ります。
そこで、自分の出世をねたんだ同僚が命を狙っていることを聞き、逆に殺してやろうと決めて「穏やかな眠り」につくのですが…

このオチは、一見すると少しわかりづらいです。ですが、よくよく描写を見れば主人公を待つ運命がわかるはず。
本作には、素直な警鐘やわかりやすい皮肉は敢えて抑えられている感があります。それよりも、ひたすらブラックな味わいを優先した印象。読後にワンテンポ置いてからじわじわと心の中に効いてくる、猛烈な後味の悪さが秀逸です。

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