最近、萌え漫画界隈でよくモンスターを主役や準主役にした作品が多い。
単にモンスターの意外にかわいらしい一面を押し出して愛でるだけの山なしオチなしの作品も多いけれど、それぞれのモンスターなりの生活事情が垣間見えるところはちょっと気に入っている。
人間では理解できないことで困っていたり、困惑していたりと。それって、SFや異世界もののだいご味なんですよね。
ひと昔前はモンスターと言えばRPGにせよファンタジー小説にせよただのやられ役だったわけで、いい意味で物語の作り方も変わったもんだなあと思います。
特にザコ系かつかわいくない代表のオークとかゴブリンとかはかなり待遇上がってるらしいですね。
パニックホラーの大前提・人間であることが正義という価値観
さて、そうはいってもモンスターという存在は、今も昔も多くの物語において基本「悪役」です。
ハナからモンスターの立場から描かれた少数の作品はまだしも、人間を中心に構成されるストーリーだと、「強大な力をもつ怪物に対抗する」といった流れがどうやったってメインになってしまいます。
勧善懲悪のヒーローものなんかだと特に。
無茶苦茶力を持った存在っていうのが、むしろ裏目に出てしまってる感じですかね。
そんな作品群でも昔から根強いのが「仲間を増やしていくモンスターに対抗する」というパターン。
ゾンビものや吸血鬼など、襲われた犠牲者を仲間に(モンスターに)してしまう類の怪物ものでよくみられる、いわゆるパニックものですね。
かつての仲間を倒さざるを得なかったりしたりと悲哀の緩急もつけやすいジャンルだけに、正当派・グロもの・萌えものまで幅広い作品が存在します。
ただ、大体の作品はあくまで最後まで人間視点なんですよね。怪物になる、ということは、あくまで忌むべき事態に過ぎない。
人間という生物として存在し続けること、それ自体を無条件に肯定し、価値を見出すことでこういう作品の多くは成り立っています。
一見正統派パニックホラーだが… 藤子・F・不二雄『流血鬼』の基本設定
その見方そのものにモロに一石を投じた作品があります。
藤子・F・不二雄「流血鬼」。氏のSF作品の中でも少年向けSFに属します。
F先生の作品の中では珍しくハッキリとした原案がある作品で、リチャード・マシスンの小説『アイ・アム・レジェンド』が元ネタになっています。
タイトルは吸血鬼のもじりですが、その通り、周囲の人間が次々に吸血鬼化していく中で、人間として戦おうとする少年のパニックものです。
…と書くと勇ましいんですが、実際には、中盤までは彼が吸血鬼化した知人に杭を突きさしまくるという陰惨さだけがひたすら際立ちます。
町中が吸血鬼と化してしまった中、彼ともう一人の少年は、まだ人間が残っていてきっと救援がくるはずだという望みを持って戦います。
ただ、その設定とは裏腹に、序盤から違和感を感じるつくりになっているのが肝。
住民みんなが吸血鬼化したといっても、街自体は別にそれほど無秩序な状態にはなっていないのです。
十字架が苦手とか、日光はあまり好まないとかいった吸血鬼特有の性質こそ持っているものの、社会そのものはパニックになるでもなく、平穏そのもの。
平穏でないのは主人公たちだけなんですよね。
もちろん、吸血鬼も抵抗はしてきますが、あまり怪物のそれという感じがありません。
むしろ吸血鬼の警察組織が機能していたりして、むしろ主人公たちの方が犯罪者のような雰囲気が漂います。
前提そのものを覆す、大胆な座布団がえし
その違和感がはっきりセリフとして明示されるのが、中盤以降、主人公の幼馴染の少女(もちろん既に吸血鬼化)が彼らの隠れ家を探り当ててから。
主人公に安全のため拘束されながら、彼女は言います。
「何のうらみもない善良な人に杭を突きさすなんて」
本作の肝は、これにつきます。
大半の人間が吸血鬼化した以上、そこには吸血鬼なりの社会と生活様式が生まれます。
生物としての性質が変わったというだけであって、彼らは従前どおりルールにのっとって粛々と暮らす「市民」に過ぎないのです。
主人公たちの行動は、確かに主人公本人たちから見れば「抵抗」なのですが、既に吸血鬼化した人々からすれば、意味もなく平穏を乱す「暴力」であり「犯罪」に過ぎないのです。
結果から言うと、この後主人公は、彼女に噛まれ、吸血鬼になってしまうわけですが…
本作はいわゆる価値観自体の転換モノに当たる作品で、オチもその流れに沿ったものになっていますが、そちらは是非ご自分の目でどうぞ。
ハッピーエンドともバッドエンドともとれる、読者自身の視点が試すかのようなラストになっています。