一般小説や青年漫画と少年マンガとの一番の違いは、鬼門になる要素が多いこと。
その最たるものが、バッドエンドだろう。
表現上の成約はもちろんだけど、少年マンガではどうしても爽快感がある方がウケやすいのは事実で、よっぽどバッドエンドになる必然性がなければ不評を買ってしまう。
近年で比較的うまくいった例で言えば「DEATH NOTE」あたりだろうけど、あれでさえ相当に評価は分かれたし。
少年誌でバッドエンドを大々的に展開した草分け つのだじろう『恐怖新聞』
かくも取り扱い注意な少年誌でのバッドエンドだけど、それでも比較的相性のいいジャンルというのは存在する。
それがホラー。ホラーの場合、バッドエンドの救いのなさがそのまま作品全体を引き締める効果を生み出すから。
ただ、それでもやはり王道でないのは事実で、少年誌においては掲載作品の幅を広げる程度の、マイナーな立ち位置になってしまいがちだ。
それは、デスゲームものが珍しくもなくなった今でも変わらない。
そうした悪環境にも関わらず、昭和40年代に大々的にメジャー誌でバッドエンドを展開した草分けが、つのだじろう氏の「恐怖新聞」(週刊少年チャンピオン掲載)だろう。
もちろんそれまでも、バッドエンド自体は決してなかったわけではない。
先述の通り青年向けでは珍しくもないし、子供向けに限って言っても、短編を中心にバッドエンドは決して少なくなかった。
ただ、その救いのなさにも関わらず、大ヒットにつなげたという意味では、「恐怖新聞」の成功はエポックメイキングと言っていいだろう。
本作と「うしろの百太郎」をきっかけにつのだ氏は完全にホラー漫画の第一人者という立場を獲得してしまったわけで、その影響がどんなに大きかったかは明らか。
当時がホラーブームだったことを差し引いても異例のヒットで、この作品がなければその後のバッドエンド作品は生まれなかったのではないだろうか。
ドキュメンタリー性と約束された結末 『恐怖新聞』の特徴
「恐怖新聞」で一見してまず目立つのは、その淡々としたドキュメンタリータッチ。
もちろんそこで描かれるのは、実際に起こったとしたら「わあ、怖ーい」程度では済まない洒落にならないものばかりだが、それにも関わらず、妙に語り口が冷静なのだ。
主人公である鬼形礼も、恐怖の表情を浮かべながらも比較的淡泊なトーンなために、一歩間違えたらNHKあたりで放送されるドキュメンタリー番組のような印象さえ受ける。
その淡々さが逆に不気味なのだが、それだけにオカルトという非現実的な題材を扱っているにも関わらず妙に現実感があるのが特徴。
特にかっこよくもかわいいわけでもない、つのだ氏特有のクールな描画が、なおさらそうした印象を強めている。
ただ、それ以上の特徴として、「主人公の死があらかじめ予告されている」という設定が挙げられる。
毎夜毎夜強制的に届けられる恐怖新聞は(雨戸を閉めていても突き破って入ってきて、視界に強引に入ってくるため読まないという選択肢がない)、読めば読むほど寿命が100日ずつ縮まっていく。
1晩で3か月強ですから、1ヵ月ちょっとで10年減ってしまう計算。仮に100歳越えの寿命があったとしても、1年持たないということになる。
さらに言えば、作中で起こる不思議かつ不幸な出来事に関しても、預言である以上、簡単に回避できるようなものではない。
恐怖新聞は未来を予知してくれる新聞で、読み手は言ってみれば予知能力を手に入れるようなものだが、現実の新聞と同じように、ただ「知る」以上の意味はないのだ。
そして、さらにそこに書かれているのは、ことごとく未来の、知らずに済むならそれに越したことはないような不幸な出来事だけだ。
つまり、あらゆる意味でどん詰まり。
諦観に満ちた作品世界と最終話のインパクト
そんな作品世界ですから、作品全体を通して、諦観がものすごい。
もちろん主人公は死を受け入れているわけではないし、他の登場人物の不幸についても避けられるものなら避けるに越したことはないというのが基本スタンス。
けれど、一方で、「こりゃどうにもならんわ」という感情が、作中通して前面ににじみ出ている。
作中で何度か除霊の手がないかとあがいてはみるものの、それも場当たり的で当然うまくいかないし。
だからこその淡々としたトーンなんだろうけれど。
そんな主人公を嘲笑うかのように、「ここでこうしていれば助かっていたかもしれないのに…」という「if」が示されるのがさらにエグさを助長している。
結果は同じとは言え、まったく助かる可能性がない方が、これならまだ印象としてはまだマシだ。
そうした諦観に満ちた展開の積み重ねが結実するのが最終話。有名な結末なのであえて書かないけれど、「バッドエンド」と一言で言い切ることさえ憚られるほどの、一縷の望みも残さない無残な結末だ。
この作品、前述した作中の「if」をみてもわかるように、やろうと思えばバッドエンド以外の終わり方もできただろう。
けれど、そこで敢えて徹底的なまでに絶望的な路線を貫き通したからこそ、このインパクトが生まれたのは間違いない。それがなければ、凡庸なホラーのひとつで終わっていたはずだ。
ホラーとしての唯一の欠点は、続編の存在
だからこそ、作者や編集者には悪いけれど、この作品はこの作品単体で完全に終わるべきだった。
続編やスピンアウトなんて、出すべきではなかった。
確かにこれらの作品は、ホラーとしてちゃんとまとまってはいる。
ですが、そこに初代に見られた、思い切った振り切りも、それゆえのインパクトも存在しない。
「明るい未来がそもそも存在しない」という、絶対的な絶望感こそが「恐怖新聞」のホラー性の根幹なのだから。
もし初代を読まれる場合は、その後展開された後続作品の存在を頭からスッパリ消去してからお読みになることをおすすめしたい。