ネガティブな主観の泥沼『ヒミズ』

ネガティブ思考というのは比喩でなく泥沼のようなものだ。
最初のきっかけは、ほんの些細な落ち込み。一瞬で終わるはずの、ただの落ち込みに過ぎない。
けれど、それを繰り返すたびに、そうした負の思考は習慣化されていく。

そして、本人さえ気が付かないうちに、世界は絶望のみに塗り潰される。
メンタル関係でよく言われるように、もともと人間の見ている世界なんていい加減なもの。
どういう視点でモノゴトを捕らえているか、それだけのことで、世界の見え方は天と地ほどに変わってくるのだ。

ネガティブ人間の泥沼の一構図 古谷実『ヒミズ』

ネガティブ人間が泥沼に落ち込むのは、そうした思考癖の問題という部分が大きい。
まして、客観的な環境が実際に劣悪ならなおさらだ。劣悪な環境では、どうやったって思い通りに物事が運ばないことがはるかに増える。
結果的に、マイナスの思考に落ち込む頻度自体が、優良な環境にいる状態よりもはるかに高まるからだ。
いくら他に取れる手段があったとしても、当人にとっては目に入らなくなってしまう。

こうしたネガティブな視点での転落劇は枚挙にいとまがないけれど、古谷実の『ヒミズ』はその最たるものだ。
一人の学生が劣悪な環境の中で破滅に向かって転がり落ちていくまでのドキュメントと言える本作は、それまでシニカルではありながらも基本的にギャグ路線で突っ走ってきた古谷氏の漫画家としてのイメージすら変えた分岐点ともいえる。

『ヒミズ』のすさまじさは、何と言ってもマイナス思考の泥沼感の圧倒的なリアルさと、それが深刻化するまでのスピード感だ。
希望が欠片も見えない展開そのものもすさまじいけれど、それ以上に主人公である住田祐一の思考が「明るい未来」から遠ざかっていく過程はそれ以上なのだ。

未来が見えない ネガティブ思考の特徴を「再現」

もちろん、この過程をどう見るかで、極端に評価の別れる作品ではある。
なぜそういう思考になるんだ?と思うタイプなら、そもそも理解さえできないだろう。
実際、住田の置かれた環境はお世辞にもまっとうなものではなく、荒むことそれ自体は納得せざるを得ないけれど、客観的に見るならまだ打てる手はあっただろう。
現実には理解者にさえ恵まれない者も少なくない中、彼には待ってくれている人さえいるのだから。

けれど、一度ネガティブに傾いた人間にとって、そんなことは問題ではないのだ。
よく「未来から目を背けてはいけません」などとよく言われるけれど、本人も目を背けているつもりはないのだ。
意識的に見ないのではなく「そもそもその可能性を考えられなくなっている」が正解なのだから。

本作を見てぞっとするのは、作品全体の退廃はもちろん、みるみるうちに加速をつけて深みにはまっていく住田の思考回路が、現実のネガティブ人間のそれ、そのままだからだ。
一見客観性が残っているようで、実はそんなものはどこにも残っていない。
そんな一方通行の思考が、まるで坂道を転がり落ちるかのように速度を上げていく様は、こちらまでその回転に巻き込まれるかのような吸引力を持っている。
そして、残酷なことに、そうした事実は、周囲から「しか」見えないのだ。

青春の憂鬱をどっぷり絡めた、ノワールの一つのカタチ

こうした下降的な思考回路、それ自体はノワール作品ではよく描かれるものではある。
また、学生もので破滅性を打ち出しただけの作品なら、もっといくらでもあるだろう。青春の憂鬱っていうくらいだし。
けれど、その両方をカチ合わせた上で、ここまで徹底的にやった作品というのは、私の知る限り他に類を見ない。

それでいて、ただドス黒いだけの作品にはなっていないのが見どころ。
まったく光の見えない世界観でありながら、ほんの少しだけ、古谷氏のギャグ時代の持ち味だったシュールさが残っているのだ。
それに、本人には認識できない、欠片ほどの、けれど大きな救いの手も、これ以上ないほどわかりやすい形で明示される。
それが、なおさら作品世界の残酷さを増すという皮肉な効果を生み出しているのだけれど。

一般的にはサスペンス的に扱われることの多い作品だけれど、むしろノワールの表現形態を咀嚼しなおした、一つの優れた表現として読みたい。

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