いわゆる名言系のネタの中でも、ソクラテスは特に頻繁に取り上げられやすい題材です。最近では自己啓発ネタでも使われてるみたいですね。
そこで、今日はソクラテスの名言のうち、管理人が個人的にグッときた「ハードボイルドな」名言を10点選び、管理人なりに意訳してみました。また、彼の人物像についても、かなりぶっちゃけたノリで語ってみようと思います。
ソクラテスの名言10選(意訳)
私が選んだ名言を先に十個あげておきます。
なお、後半三つは、ソクラテス氏の私情がかなり入ったものではないかと推測されます(笑)。
●一番大事にすべきことは、生きることではない。
よく生きることだ。
●妬みとは、魂が腐ることでしかない。
●他の人々は食うために生きるが、私は生きるために食う。
●豚として楽しんで生きるより、人として悲しんで生きる方がいい。
●損害・利益のいずれに対しても、
報いることができないことは不誠実だ。
●自分がされたら怒るようなことを、他人にしてはいけない。
●結婚はとりあえずしてみるといい。
もしお前の妻が良い妻だったなら幸福になるだろう。
仮に悪妻だったとしても、哲学者にはなれるだろう。
●猟人は犬を使って兎を狩る。
おべっか使いは褒め散らすことで愚者を狩る。
●討論の後には、悪口が敗者のツールと化す。
こうして並べると、現在当たり前のように使われる表現もちらほら見られます。そういう意味ではマトモと言えばマトモなんですが、いかにもハードボイルド系の作品のセリフで使っても違和感がないものばかりなのがポイント。視点がすごくドライで皮肉っぽいんですよね。
ただ、ソクラテスは、書き言葉を「死んだ言葉」として嫌い、書物を一切残しませんでした。現在伝わっている彼の言葉は、いずれも彼の弟子とされるプラトンなどによって書き残されたものです。当然、弟子の独自解釈が入っていますから、彼の言葉そのままかは疑問が残るところです。
ソクラテスが死刑になるまでの「嫌な奴」っぷり
ソクラテスはギリシアの哲学者で、「無知の知」で有名です。
いわゆる、「自分が無知であることを自覚しろ」ということです。
「無知の知」という概念は何故生まれたか
ソクラテスはもともと自分を愚かだと思っていましたが、ある日神託で「おまえは誰よりも賢い」と言われます。普通なら単純に喜ぶところですが、彼はこの神託に反発しました。
「じゃあ俺より賢い奴を見つけてやる」と、当時賢人として世間から評価を受けていた人物に今でいうところの突撃取材を試みます。ところが、会えば会うほど、彼らが意外に物事を理解していないことがわかってきてしまいます。
そこで彼は、「少なくとも俺は、自分が無知であることは知っている。神が言っているのは、そういうことじゃないか」と解釈します。
その結果出てきたのが、
「知らない事を自覚することが、真の知を得るための源だ」
という考えだったのです。
※注:ただし、「無知の知」には異なる解釈もあります。「人間程度の知に大した意味はない、思い上がるんじゃない」という意味なのでは、と言う意見もあります。また、そもそもソクラテス自身は「無知の知」と言う言葉は使っていなかったと思われることは付言しておきます。
ただ、問題は彼がある意味で神に忠実な人物だったことです。
彼は自分にもたらされた神の教えを世に広めるべく、片っ端から当時賢人と言われる人々に論争を挑み、いかに無知かを知らしめるという活動に没頭し始めます。客観的に考えて、相当イヤな奴ですよね(笑)。
当然のように彼は多くの敵を作ってしまいました。結果、彼は「大衆を惑わせた」として、死刑を宣告されてしまいます。
ソクラテスが用いた問答法とは?
ソクラテスが用いた方法論の一つとして、今でも知られるのが「問答法」です。これは端的に言えば「議論の前提はそもそも正しいのか?」という問いを相手に対して徹底的に追求していくというもの。
たとえば、「正義が貫徹される社会」について語る人物がいたとするなら、そもそも彼の言う「正義」とは何かというところから突っ込む。
だいたいにおいて、言葉の定義というものはひとつひとつは漠然とした概念ですし、そもそも個々人のバイアスがかかっています。
けれど、人間、自分の考えには意外と鈍感なもので、そのことに気づかないまま、漠然とした概念を自明のものとして扱っていることが多いものです。
そこで、ひとつひとつの言葉の定義をどんどん突っ込んで問い詰めていくと、そこには何かしらの矛盾、つまりボロが出てきます。そのタイミングで相手の考えのおかしいところをあからさまに指摘する。
この流れをみて「揚げ足取りじゃないか」と思われた方、正解です。今風にいうなら「論破」の手順そのものなのです。
けれど、単なる揚げ足取りと少しだけ違うのは、その目的があくまで「相手の思考を深めること」であり、さらにいうなら相手が考えていることが現実に有効なのかへの形を変えた問いかけであったということ。
人間が思考するのは、色々考えた末に「現状に対して何か有効な手立てを打つこと」が目的です。ですが、前提そのものが間違っていたり、ズレていたりするなら、そこから打つ手立ても有効に働くわけがない。
そこを矯正するには、ソクラテスのツッコミは極めて有効なやり方だったのです。だからこそ、今に至るまで議論の方法論として長く伝えられているとも言えます。
実用性を重視したソクラテスの姿勢
また、この考え方は、今から考えれば極めて実用的な考え方です。
弟子のクセノポンによると、ソクラテスは哲学者としての姿勢として、実用的でないものを嫌ったとされています。こだわるのは、あくまで人間にとって、「それを考えることで人間にとって何らかの利益が得られるもの」だけ。それ以上の領域については、人間が踏み込むべき領域ではない、と考えていたと言います。
こうした姿勢をどう捉えるかは人それぞれですが、地に足のついた骨太な姿勢とも言えます。いずれにせよ、こうした実用性重視の考えが根底にあったところにこそ、ソクラテスがその嫌味っぷりにもかかわらず、一定の人々の評価を得た理由があるのではないでしょうか。
もっとも、現代でもそうですが、いかに地に足がついていようと、これを四六時中やっていればどうなるかというと…弟子をはじめとする支持者たちはともかく、このノリについていけない人々には疎まれても仕方がありません。
それでもやめなかったあたりが、ソクラテスの皮肉屋としての、そして哲学者としての矜持だったのでしょう。もっとも、それで死刑宣告を受けてしまうあたりは、生まれた時代が悪かったとしか言いようがありませんが。
死ぬまで皮肉屋 ソクラテス氏のハードボイルドっぷり
もっとも、彼は死ぬまで皮肉屋であったようで、無実の罪を嘆いた妻に対して、
「なら、本当に有罪だった方がよかったのかい?」
と応えたという逸話も残っています。皮肉屋もここまで達観していると見事ですよね。
ただ、自分の信念(神のお告げという意識だったにせよ)をここまで貫き通したという点に、管理人としては彼の名言に通じるハードボイルドさを感じるのです。ハードボイルドの魅力は、主人公の意思が強いことですから。
そう考えると、クソ真面目な哲学者というイメージしかわかない典型例のソクラテスのキャラクターが思いのほか興味深く感じるのではないでしょうか。
弟子の解釈とはいえ、他にもえぐりこんでくるようなシニカル名言の多い人物なので、興味の湧いた方は文庫などで当たってみると面白いですよ。