システムへの全面依存 『箱舟はいっぱい』の恐怖感の根源

今回取り上げるのは、藤子・F・不二雄「箱舟はいっぱい」。
これも人類滅亡をテーマとしたものではあるのですが、そのテーマ以上に別の面で妙にリアルな恐怖感を感じる作品です。

破綻なきカタストロフストーリー『箱舟はいっぱい』あらすじ

主人公は、妻と一人息子と仲睦まじく暮らすサラリーマン。
ある日、彼は隣人から唐突に持ち家の売却を持ち掛けられます。
価格は500万円。現在とは物価が違うとはいえ、あまりにも破格です(作中でも2000万程度の価値はあると触れられています)。
当然驚く彼でしたが、借家住まいの身からすれば、降ってわいたような幸運なのは事実です。
上機嫌になるあまりに我を忘れる主人公。脳内に展開する、明るいばかりの未来。

そんな彼を得体のしれない男が訪ねてきたことから話は雲行きが怪しくなっていきます。
彼は「ノアロケット」なるものが完成したことと、彼が「少数の中から選ばれた」ことの幸運を告げた上で、500万円の支払いを要求します。
ただ、この男の訪問先は、本来は隣の家だったのです。名前を聞いて、訪問先を間違えたことに気づいた謎の男は、慌てて脱兎のごとく飛び出していきます。
さすがに、お気楽一辺倒だった主人公も、何か不穏なものを感じ始めるのですが…

ご覧の通り、人類滅亡モノとしては一定型の一つ、足元から日常が徐々に崩れ始めるという構成をとった作品です。
藤子F氏特有のどんでん返しこそピリっと効いているものの、シナリオの作りとしては伝統的な作劇を重視した印象。
それだけに、展開的にも比較的予想がつきやすく、あっと驚くというようなものではありません。
ただ、それだけに登場人物には感情移入しやすくなっており、とっつきのよさが特徴。
破綻のない展開の妙を楽しむ部類の作品です。

 

社会によって作られ、廃棄される信用というモノ

この作品が特徴的なのは、破滅というカタストロフ、それ自体がテーマなわけではないというところにあります。
では何かというと、社会への信用そのものが揺るがされる恐怖感です。

独裁国家などでは全く話が違ってきますが、少なくとも先進国の社会では、一応「社会は国民に対して誠実である」ことが前提となっています。
もちろん全員が甘い汁を吸えるわけではないのは事実ですが、社会は世の中全体のサイクルが破綻なく回ってこそ成立します。
だからこそ、色々あるけれど根本の部分では、社会は国民に対して好意的であるはずだという考え。
それをみんな(ある程度以上の割合の国民)が信じているからこそ、先進国の社会は安定性を保っているのです。
仮にそれがないなら、それこそ「北斗の拳」の世界になってしまいかねません。

ですが、この作品はまさにその、盲点を突いています。
もちろん、人間が存在していこうとする以上、社会は維持される必要があります。
ですが、その社会そのものが、極度に規模を縮小せざるをえない事態に陥った場合はどうか。
物理的に「社会を構成する人間の数、それ自体を絞らないといけない」事態に陥った場合、社会は国民に対して、どういう判断を下すか。
そうなったとき、社会が重視するのは、人間的な倫理ではなく、ただシステムを維持すること、そのものでしかないのではないか。

そういう冷徹さこそが、本作の独特の恐怖感の根源です。

できることなど何もない、という恐怖

そして、なにより恐ろしいのは、そのように社会が個人に対して牙をむいた場合、一般市民にできることは何もないという事。
だからこそ、信用できそうな相手の言うことを信じるしかない。いや、それ以前に、目の前に提示されたものに対してそもそも疑いを抱けない。
――その相手が本当に信用できるかの根拠なんて、冷静に考えてみれば何もないにも関わらず。

そうした二重三重の重苦しい現実が、にもかかわらず軽妙に描き出されるのが本作の真骨頂です。
主人公たちの仲睦まじい、心温まる描写との場面転換は、テンポがいいだけに余計にギャップと哀愁が際立ちます。
信じるべき土台をひっくり返されるということの、めまいがするような不安感を追体験できる一本です。

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