ウダウダやってるヒマはねェ!(米原秀幸)感想 過激な物語と相反する清涼感

少年誌・青年誌を問わず男性向けマンガ誌の定番の一つである、
ヤンキーやチーマーなどを主役とした不良もの。
このジャンルならではの特性が、
他のジャンルの要素を物語の一要素として
違和感なく取り込みやすいという点です。

不良モノというジャンルの利点と縛り

たとえば、バトル重視の作品であっても、
その間にギャグマンガっぽい展開を入れるくらいは容易ですし、
なんならラブコメやお涙ちょうだいの人情劇を挟んでも、
違和感なく世界観になじませることができます。

また、作品自体のテイストも、
ギャグ主体かシリアス主体かのバランス調整次第で
かなり差をつけることができますし、
大きな特徴であるバトルにしても、
敵の設定次第では映画のような
とんでもないスペクタクルな展開にすることだって可能です。

それでいて、「不良の世界」というフィルターを一旦通すことで、
少々無茶な展開であっても一般的な小市民の社会とは異なる世界の物語として
一定の説得力を持たせることができる。
この点で、作者側が取りうる展開の幅広さは特筆すべきでしょう。

ただし、どんな展開をやるにしても
「不良であること」という縛りが出来てしまうのも事実。

実際の不良の世界というのは、
一見奔放なように見えても、
一般的な社会以上に世知辛い面があります。

激しい上下関係などは良く知られるところですが、
部外者である筆者が見聞きして来た範囲だけでも、
家庭問題、同学年の不良内でのメンツの張り合い、
それに加えて一般人からの偏見…などなど、
話だけで気が滅入ってくるような話題には事欠きません。

平穏に暮らしてる方が、まだ楽なんじゃないか?
意地を張らなくてもいいんじゃないか?

と、つい尋ねてみたくなる程度には。

こうした現実がある以上、
いくら漫画とはいえ、その影響から完全に逃れることはできません。
どんなに物語の展開が派手であっても、
根本的な空気感に
この手の世知辛さや薄暗さがどうしてもつきまとうことになります。
そうでないと、あからさまに嘘っぽくなってしまうからです。
フィクションであっても、不良には不良なりの社会というものがあるのですから。

そのため、不良ものでは
「スカッとした爽やかな雰囲気」だけは、なかなか出しづらい。

もちろん、様々なジャンルの要素が混在するこのジャンルでは、
青臭さや軽さを強調した作品だって当然ありますが、
そういう作品でさえ、
どこかに重苦しい雰囲気を漂わせていることが多いのは
否めないところでしょう。

不良もの特有の重さからの解放『ウダウダやってるヒマはねェ!』

設定そのものはむしろ他作品以上に危険

ところが、そんな逃れられない縛りを、
部分的にとはいえ抜け出すことに成功した、
珍しい作品があります。
それが90年代不良漫画の一角、米原秀幸氏による
『ウダウダやってるヒマはねェ!』(秋田書店/週刊少年チャンピオン掲載)です。

「一部分だけ」と述べたことからもわかるように、
本作にまったく重苦しい要素がないというわけではありません。
むしろ、設定だけをみるなら、
他の同ジャンルの作品以上に危ない設定が目立つほどです。

ストーリーは
頭脳派かつ快楽主義者の島田亜輝と
肉体派かつ直情的な赤城直巳という
性格的には正反対のコンビが
入学した高校の番長グループや
その他様々な不良とのバトルを
乗り越えていくという、
構造的にはこの手の作品の定番中の定番。

あえて設定上の特徴を挙げるとすれば、
主人公二人が、いわゆる「ヤンキー」的な色合いが極めて薄く、
「純粋に無軌道なワル」といった風情だということくらいでしょうか。
もっとも、本作発表当時には、不良モノといえば、
いかにもヤンキー的な作品がほとんどでしたから、
主人公のたたずまいだけでもかなり新鮮さはありました。

ただ、描写的にはコメディ色が強いものの、
初っ端から目立つのは、
登場人物のタガの外れ方です。

主人公2人がまだ中学生だった頃のエピソードから
話が始まるのですが、
この段階でヤクザともめるわ
強盗を平然とやらかすわと、
完全にリミッターが外れています。
特に島田については、
ある意味でひねくれたところのない赤城と違い、
何をするかわからない危険さが
作品序盤から明示されています。

このタガの外れ方は悪役についてはさらに極端。
凶悪さを強調される悪役は他の作品でも同様なのですが、
本作の場合、思考回路からして
ハナから完全に別世界に行ってしまっているような、
見るからに危ないタイプが多く、
やらかす内容も、彼らの背景も
他作品以上にえげつない。

謎めいた雰囲気で、のちに意外な立場から
作品全体を支配する存在感を見せる天草銀(アマギン)や、
ニコニコした表情があからさまにうさんくさい
弐乃学など、どいつもこいつも設定的には
非常に「おいしい」キャラではあるのですが、
その行動原理の方はというと、、
不良社会の文脈さえ完全に逸脱しています。
それどころか人間っぽささえ希薄で、
感覚的にはむしろクリーチャーに近い。

仮にストーリーを文字だけで全部説明したとすれば、
爽やかさとは程遠い印象しか持ち得ないでしょう。

物語自体の印象に反する、スカッとした後味

ところが、こうした物語であるにも関わらず、
本作はなぜか圧倒的に抜けがいい。

読後感にヤンキーもの独特の重さがほとんど感じられず、
それどころかまるで晴れ渡った青空のような
スカッとした印象だけが残る。
それが本作の本作たるゆえんであり、
唯一無二の個性なのです。

こうした本作の読後感がどういうところから生じるのか。
その理由は単一のものではなく、
いくつか考えられる要因がまず単体としてあり、
それらが奇跡的なバランスでかみ合った結果ではないかと思われます。

徹頭徹尾個人に根差したクールな思考回路

まず、本作の第一の特徴ですが、
悪役側・主人公側問わず、話を直接引っ張るキャラについて、
「他人」の影響度合いが非常に低いことが挙げられます。

確かに徒党を組んでいるキャラクターは多いですし、
実際に、サブ的なポジションのキャラクターに関しては、
他の作品と大きな差はありません。

が、メインを張るキャラに関しては別
(直情的な赤城はまた多少毛色が違いますが)。
まったく他人の影響を受けないわけではありませんが、
だからといってそれに踊らされることは、
(少なくとも読んで感じる範囲では)ほぼ皆無。
価値判断の軸があくまでも自分なのです。

これは別に、各キャラクターの間に
情やこだわりが存在しないという話ではありません。
むしろ、キャラクターによっては
それは妄念と言っていいほどに強い。

ただ、そんなキャラであっても、
思考の基準に関しては他人を持ちこむことがない。
いい意味でも悪い意味でも、自立したキャラクターたちなのです。

特に悪役たちにはこれは顕著に表れており、
彼らの狂気的な思考は、環境に影響された部分はあるにせよ
最終的にはあくまでも彼ら個人に帰属するという側面が非常に強い。
それは、確かに重苦しいものではあるのですが、
一方で、不良漫画ではありがちな
集団性に由来する重さとはまったく異質なものです。

こうした傾向のため、
本作の人間描写は、物語の基本構造の印象に反して
良くも悪くもかなりドライです。
そのため、共感性などは見た目以上に希薄なのですが、
一方で、ねちっこさのないクールなキャラクター達に仕上がっています。

ひたすら軽くてスタイリッシュなキャラのリアクションと絵柄

前述したとおり、本作の悪役が巻き起こす数々のトラブルは、
他の作品と比較しても十分すぎるほど凄惨なものです。
それに、その背景にしても、流れだけを見ればかなり深刻。

となれば、普通はそれに対するリアクションも、
それ相応に深刻なものになりそうなものです。

ところが、本作はこの定石を敢えて崩してきます。
確かに、主人公たちもそれ相応の怒りや苦悩の表情を浮かべたりはするのですが、
それが具体的な行動として現れる際には、
妙にノリが軽いのです(もちろん、シーンによっては例外はあります)。

こうしたノリは、正直、多少の違和感は感じます。
悪く言うなら軽薄そのものですし、
事態の深刻さからのギャップには場違いささえ感じますから。

ただ、違和感はともかく、
この軽さゆえのスタイリッシュさと、爽快さがあるのも事実。

どうみてもバイオレンス極まりない現場で冗談めかしたセリフを吐き、
徹底体に「軽快であること」こそに重きを置いているかのようなその様子は、
敢えて言えば、同じく90年代に、
それまでの刑事ドラマの泥臭さを払拭した名作『あぶない刑事』に
近いものを感じます。

その印象をさらに強めるのが、作者である米原氏の独特の絵柄。
この頃の氏の画風は、非常に描線の細い、
マンガというよりもイラストレーションと言った方が近いもの。
ただでさえ太めの線の作品が多い不良ものではかなり異彩を放つものですが、
そのある種硬質な味が、作品全体の洒落た雰囲気に良くマッチして、
キャラクターの動きの魅力をさらに引き出しています。

あまりに過剰なスケールが生んだ「冒険譚」としての側面

バトルを主体とした作品というのは、
敵の側をどんどんスケールアップしていかないと、
失速してしまうという特性があります。

本作もこの例に漏れず、悪役がどんどんスケールアップしていったのですが、
最終的な到達点があまりにも過剰だった。
もともと狂気性の方が際立った悪役がほとんどで、
普通の不良が少ないこの漫画ですが、
ラスボスに至ってはそれ以前の問題で、完全に規格外。
もはや不良ものどうこうを通り越した「巨悪」レベルの悪役なのです。

前述したスタイリッシュな描写ゆえに
実際に読むと意外とすんなり納得させられてしまうのですが、
冷静になって考えてしまうと、さすがにあんまりです。

ただ、本作の場合、この過剰な大げさ加減が、
作品の最終章に当たって独特の味を生み出しています。
話があまりにも壮大になりすぎた結果、
「未知の世界への大冒険」といった体になっているのです。

しかも、この期に及んで、主人公たちのあっけらかんとした
ノリの軽さはますますエスカレート。
「まあ、ちょっと行ってくっか」程度の雰囲気です。
作品の舞台が夏というコトもあって、
印象だけをみれば「ひと夏の大冒険」。

それらの要素が合わさった結果、本作の最終章は、
ドロドロした設定に反して、
雰囲気的にはジュブナイルに近いものさえ漂っています。

マンガのコマから、
むっとするような熱気と、
どこまでも続く青空と、
セミの声のけたたましさ、
それらが混然一体となって伝わってくる感覚。
その下で、ひと夏の冒険に胸を膨らませる無軌道な若者たち…。

まあ、実際の物語はこの雰囲気とは裏腹に、
荒み果てた内容だったりするわけですが、
終盤に向かうにつれどんどんドロドロした方向に進んでいく傾向がある
不良漫画というジャンルにおいて、
このような、いかにも爽やかな雰囲気と構図を
前面に押し出した最終章は前代未聞です。

この終盤のムードをもって、
本作は、同ジャンル内での異色作としての立ち位置を
完全に確立したと言えるでしょう。

青臭さを我慢してでも読むべき異色の名作

週刊少年チャンピオン発の不良モノとしては、
別項で触れた『特攻天女』があります。

あちらも相当の異色作ですが、
その重々しさがヤンキーものとしては規格外だった『特攻天女』に対して、
本作はまったく真逆の方向に向かって
突き抜けた作品と言えるでしょう。

ちなみに、本稿では散々クールだ、スタイリッシュだと繰り返してきましたが、
本作は同時に、かなり青春モノとしての青臭さ漂う作品でもあります。
これはけなしているわけではなく、
当時の米原氏の作風自体、そうした雰囲気を濃厚に打ち出す傾向があったのです。

この点からいうと、本作はかなりその臭みが強く、
むしろ本題であるストーリー以上に
読み手を選ぶ分かれ目になってしまっている面があります。

ただ、こうしたクサさを我慢してでも、
読み通すだけの価値のあるスリリングさが、
本作にはあります。
展開の起伏の激しさ、キャラの独特の癖の強さなど、
作中のあらゆる要素に翻弄された末にやってくる
気持ちの良い読後感は、
一流エンターテインメント作品に匹敵する風格を感じられるはずです。

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