同棲というと甘い響きだけれど、現実の恋愛的にはお試し期間という意味合いが強い。
相性の良しあしはもちろん、その相手の本性は実際に一緒に暮らしてみないとわからないという前提がそこにはある。
相手と二人きりの、世間の視線が届かない密閉された空間だからこそ、その本性が露わになるのだ。
その意味で、筆者は同棲という行為に、どこか恐ろしい印象がある。
そりゃ、うまくいけばこれほど幸せな時間はないだろう。
けれど、うまくいかなかったなら。ましてや、その相手が実は恐ろしい本性を持っていたとするなら。
その点でいえば、『ミザリー』はその最悪の形を描いたホラー作品と言えるかもしれない。
もっとも、一般的な同棲と違ってこちらは恋愛感情は最初っから微塵もないわけだけれども。
共同生活の最悪のカタチ スティーブン・キング『ミザリー』
主人公は、人気小説シリーズ『ミザリー』を代表作に持つヒット作家、ポール・シェルダン。
彼はある日、気まぐれで出かけたドライブで事故を起こし、意識不明になる。
気が付いたとき、彼は山中の一軒家で、一人暮らしの元看護師である女性・アニー・ウィルクスに介護されていた。
たまたま事故を目撃した彼女は、急ぎポールをこの一軒家に運び込み、手当を施していたのだ。
そして、ポールの素性に気づいて夢見心地だったとも。
彼女は、『ミザリー』シリーズの熱狂的ファンだったのだ。
こうして足を完全に骨折して動けないポールとアニーの共同生活が始まった。
なぜ彼女が外に連絡していないのかはさておいて…
先に書いてしまうけれど、本作のいわばヒロインであるアニーは、恐ろしい異常者である。
本作の殆どを占めるのは、彼女がポールをひたすらに虐待し、意のままにしていく、(ポールにとっては)最悪の共同生活。
そして、その土台を流れるテーマはずばり、「狂信的なファン心理の恐ろしさ」だ。
アニーの度を越したファン心理が生み出す、狂気に満ちた密室空間
作中作『ミザリー』シリーズに熱狂するアニーに対し、ポールは通俗小説であるこのシリーズのイメージに縛られることにウンザリしていた。
だから、既に執筆済みの最新作で、ポールは主人公のミザリーを死なせ、ストーリーを完結させている。
ポールとしては、それによって旧来のイメージを脱して、新たな作品を書くという意欲に燃えていた。
けれど、あくまでもシリーズのファンであるアニーには、そんな作家側の事情は関係ない。
数日後、ようやく発売されたその最新作を読んだ彼女は激高する。
そして、その激昂が収まったとき、彼女はいいアイデアを思いつく。
当の作家本人が、自分のいうことを聞かざるを得ない状態で目の前にいるのだ。
…それなら、自分の意に沿った作品を書かせればいい。
アニーに生殺与奪を握られ、ポールは密室に閉じ込められたまま、ミザリーを生き返らせた「アニーのためだけの最新作」を描き出していくのだ。
ミザリーによって結び付けられた二人だけの密室。
登場人物は二人だけ、舞台も室内のみ限定された閉塞的な作品世界で、元々異常なアニーはもちろん、衰弱とともに徐々に狂気をおびてくるポールの作家としての業が強烈な印象を残す作品だ。
痛みを感じるほどの徹底した心理描写
プロットを見ればわかるように、系統的にはサイコホラーの色のつよい本作だけれど、実は本作を恐怖小説として特徴づけているのは、実はアニーの異常性、そのものではない。
もちろんそれが最大の要因ではあるのだけれど、作品としての恐怖感の源泉は、異常性以上にその意に入り細にいった、しつこいほどの心理描写だ。
もともとスティーブン・キングはねちっこい描写には定評のある作家だけれど、本作ではそれが度を越えるほどの細やかさで徹底される。
直接的な残虐描写などに至っては、読んでいるこっちが身体に幻痛を感じるほどだ。
スプラッター的な描写はもちろんなのだけれど、この細かい描写がもっとも活かされているのが、ポールの心の中。
もはや書き上げたところでここから出られる保証はない。それどころか、相手はアニーだ。むしろ生きて帰れない可能性のほうが遥かに高い。
それを分かっていながら、徐々に強要された作品にのめりこんでいくポールの思考回路は、それ自体が徐々に幻覚的な色彩を帯びてくる。
そして、いわば現在の「編集者」であるアニーへの恐怖と憎悪と、そして、ごくごく一つまみほどの愛着…
これでもかと描き出される彼の引き裂かれた、分裂的な脳内風景は混沌そのもので、ひたすらに荒涼としている。
アニーのあからさまな狂気と、ポールのそんな混沌が、狭苦しい密室を舞台にぶつかり合い、混ざり合う。
そんな息詰まるような、ねっとりとした空気感が一行一行丁寧に、文字通り「再現」されている。
二度と暮らしたくない相手と空間を共にせざるを得ない。
そんな状況をそのまま紙面に起こしたかのような塩梅で、ここまでいい意味で嫌な文章もそうざらにはないだろう。
映画版視聴済みでも見てほしい、原作の強烈な圧迫感
なお、読みやすさに関して言えば、翻訳にも関わらずかなり読みやすく、海外文学になれていなくてもほとんど問題はないはず。
性質上、イメージ的な描写も多い本作だけれど、文章そのものは極めて平易にまとめられている。
映画化されたこともあってそちらの方が有名になった感もある本作だけれど、個人的にはたとえそちらを見ていても、この原作には一度目を通してみてほしいと思う。
映画は映画でかなり評価は高かったのだけれど、「二人だけの空間」の圧迫性などに関しては、やはり小説版に分がある。
自分では絶対に体験したくない「最低最悪の同棲体験」の妙味を、嫌というほど味あわせてくれるはずだ。