か細い声ゆえのギリギリ感 太宰治『ヴィヨンの妻』

よく人生論として語られることのひとつに、「人生どん底からでもいくらでも這い上がれる」というものがある。
確かに、心の持ちようとしては、こうしたある種のお気楽さは非常に重要だ。
私個人の経験から言っても、こうした考え方ができないと、ドツボにハマる確率はほぼ確実に上がってしまう。

けれど、それはあくまで一般レベルの「どん底」の話。
仮に本当に救いようのないどん底まで落ちたとき、何人がこんな心持を保てるかはあやしいものだ。

なにより、その「どん底」がどの程度のものなのかは状況によっても、それぞれの人間の性質によっても変わる。
人生論の著者たちがどんな人生を送ってきたかは知らないが、そもそも一般化できるようなことではない。
心がけとしてこうした考えを否定する気はないけれど、少なくとも自分以外の素性すら知らない人間にまで当然の理屈として押し付けるのは違うと思うのだ。
それは、這いあがれなかった人間の否定にしかならないし、結果的にむしろ怒りと諦めの強化作用しか生まないだろう。

太宰治『ヴィヨンの妻』(新潮文庫版)は、そうした様々な形の「どん底」の、そのギリギリ一歩手前の状況を描いた短編集だと思う。
収録作は表題作のほか、『親友交歓』『トカトントン』『父』『母』『おさん』『家庭の幸福』『桜桃』の各編。
時代的には、いずれも終戦直後を舞台にした作品たちだ。
いずれも日常の暮らしの描写が中心の作品たちで、特に目立った起伏もなければ、明確にそれと分かるような感情の激動もない。
太宰お得意の斜に構えた視線で切り取られる日常を淡々と描いたそれは、男性視点・女性視点といった使い分けなど技巧的ではあるものの、印象としてはむしろエッセイに近い感覚さえ覚える。
筆致が軽快だからなおさらで、特に『親友交歓』に関しては出だしからおかしみさえ感じさせる語り口だ。

けれど、その軽快さにもかかわらず、『ヴィヨンの妻』は一冊通して、どうにもいかんともしがたい重苦しさに満ちている。
本作品集は、戦争やそれによる時代的な傷跡はそれほど重要な位置を占めているようには感じさせない。
もちろん、はっきりとそれによる損害は示唆されているし、また、戦後の混乱の中だからこその陰惨な行為も作中に挿入されて効果を上げているけれど、それ事態はそれほど重要な位置を占めているようにも思えない。

破綻した家庭、破綻した心理、壊れた関係。
そして、それによる救いようのない諦念。
本作のどの作品にも通底するのは、あくまでも卑近な個人に属する問題であり、いつまでたっても変わりえないあさましい人間の姿であり、そして、自分も含めたそうした姿に対する絶望感だ。

むしろ、エッセイと見まがうような軽快な文体だからこそ、その心理の落ち加減が際立ってしまっている。
「ヤケになる」という言葉があるけれど、まさにそんな感じだ。
ヤケになりすぎて、無理矢理笑うことしかできなくなってしまったような、ドツボな壊れ具合ばかりが延々と続く。
一応、一般的な見方も提示しておくと、本作品集は太宰なりに新しい倫理観と家庭像を構築しようとした意図がある作品集と言われている。
けれど、かすかに、一筋の光明のように示されるそうした新たな価値観や理想は、むしろ作者のはかない幻影のように思えて、余計に息苦しさを増しているように思える。

そうした作品ばかりが集まっている特性上、描写に関してはウェットさはほぼ皆無で、ある意味ハードボイルド的なドライささえ感じる。
もっとも、敢えて抑制的なハードボイルドと違い、こちらはもう絞り出す水分もないという、息も絶え絶えな雰囲気が濃厚という違いはあるけれど。
そんな無残さの中で、もう這い上がれる見込みもないままに、それでもまだ虚勢を張らざるを得ないという痛々しさこそがこの本の一番の真骨頂なのだと思う。

ハッキリと「イタい」作品は数多くある。
逆に、逆境の中で勇気づけてくれるような作品もある。
けれど、この本はいずれでもない。
ただ、ギリギリの感覚を提示するばかりのこの本は、だからこそ「絶叫」までには至らない、か細い声を伝えてくる。
はっきりメッセージを伝えてくるような、素直さもないけれど、目前にどん底が迫ったときの人間のリアルを表現するという点においては、この小説集はどうしようもないほどに成功している。

タイトルとURLをコピーしました