『宇宙船製造法』にみる安定本能の怖さと行く末

よく自己啓発系で言われることとして、「人間は今いる環境を固定化しようとする本能がある」というのがあります。
それがいい環境であろうが悪い環境であろうが、本質的に人間は「変化すること」それ自体を嫌うというもの。

これは自分を振り返っても確かにその通りで、かなり不満があるような環境であっても、その中でなあなあでやろうとするのとそこから一歩踏み出そうとするのとどっちが心理的な抵抗が大きいかというと、後者なんですよね。
冷静に考えたらそのままではあまりよろしくないとわかっている場合でさえ、足踏みをしてしまったりする。

もちろんマイナス面がどの程度影響があるかにもよるし、踏み出すことと無謀とは違う。
その辺は人それぞれだから、自己啓発系の一律能天気に変化を勧める態度はかなり問題があるとは思います。
ただ、だからと言って思考停止は避けたいところです。
場合によっては、救いようの環境でさえ麻痺して何も感じなくなってしまうことはままあるし。
現実世界を見ればわかるように、一見悟ったようにさえ見える素直な「受け入れる」態度は、場合によっては凶と出ることもあるわけで、だからこそ頭の片隅くらいには常に置いておくべきだろうなあと。

漂流もの統治シミュレーション 『宇宙船製造法』のあらすじ

その視点で見ると、ある意味恐ろしいifを想像させてしまう短編が、藤子・F・不二雄「宇宙船製造法」です。
少年SFに分類される作品で、設定を見ればジュブナイルそのもの。
宇宙で遭難してしまった少年少女たちが、漂着してしまった惑星で生活の基盤を作り上げていく中でのもろもろの人間模様を描いたものです。

宇宙船の修理法も、救援を求める術もない環境。彼らには、この星でなんとかしのぐ以外の選択肢はありません。
リーダー格である志貴杜を中心に団結した彼らは、輪を乱す不穏分子である堂毛(要は絵に描いたようなジャイアンタイプ)を数の力で抑え込みます。
そして、惑星での暮らしが徐々に形になっていくのですが、志貴杜の指導力と実権がなまじ突出していたことで、彼はリーダーというよりも半ば独裁者となっていきます。
規律を乱したものへの鞭打ちなども平然と行われる日常。誰ももう、唯一の武器である光線銃を持つ志貴杜に逆らえません。
ですが、その反面、志貴杜に従っていれば新生活は粛々と整っていきます。

そんな中、主人公である小山は、それでもなお宇宙船を何とか修理して故郷に帰るという考えを捨てられずにいました…

と、内容としては小規模ではあるものの政治のシミュレーションをうまく漂流ものとカチあわせた作りになっています。
民主制と独裁制が意外と紙一重で変質しうるものであることなど、藤子F先生お得意の皮肉も効かせてあります。
とはいえ、少年SFということでかなりマイルドな部類ですし、ストーリーとしての起承転結のまとまりもよく、非常にすっきりとした作品です。

現状維持を選んだらどうなっていたか…読み返すと感じる負の可能性

ただ、そうしたテーマとはまた別に、前述の「変化を嫌う」人間の性質を踏まえて本作を見ると、嫌なifを想起させる作品でもあります。
本作でキーとなるのが、あくまでも故郷に帰ることに賭ける小山と、現実的にこの星での生活構築に徹する志貴杜の対立です。
実際の作中では、やはり故郷に帰れるものなら帰りたいと願うメンバーたちが小山に同調する展開で、ラストに繋がっていきます。

ただ、この場面でもし、作中で故郷に帰りたいと思っていたのが主人公一人だったらどうなっていたか。
主人公以外のメンバーが、ラスト手前の時点ですでに望郷の望みを捨て、現状維持を優先していたらどうなっていたか。
リスクがある以上、そういう展開は可能性としては十分あり得たはずなのです。
そうなっていたら、どんなブラックな事態になっていたか…何しろ、武器(しかも殺傷力ありの)を持っているのは志貴杜だけなんですから。

そういう点で、人間の「黒さ」に思いをいたすだけの経験を経た後で読むと、かなり印象の異なる作品です。
子供の頃読んだことがあっても、大人になってから読むとかなり抱く思いは違うはずです。

ただ、そういう深読みに思い至るからこそ、気づくものがあるのも事実。
自分がただ目先の安定だけを追って思考停止していないか。
今踏み出すべきなのか、そうでないのか。
それを真顔で考える、いい機会になってくれるかもしれません。

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